開 口 水 門 姫 神 と 開 口 神 社 |
開口水門姫神 と 開口神社 (堺市堺区甲斐町東2丁1−29) 『住吉大社神代記』の中には、住吉大神の子神として「開速口姫神 (あきはやくちひめのかみ) 」あるいは「開口水門姫神社 (あきくちのみなとひめのかみ) 」が登場します。両神は同一神であり 「 一、六月御解除 (みはらへ)。開口水門姫神社。和泉監に在り 四至 東を限る 大路。 南を限る、神崎。 西を限る、海棹の及ぶ限り。 北を限る、堺の大路。」 これに続いて、「九月御解除。田蓑嶋姫神社。西成郡に在り」と記されるように、住吉大社の「北祭」の聖地、田蓑嶋姫神社(西成郡)に対して、住吉大社の南方約4km、摂津・和泉・河内三国の国界近くに鎮座する「南祭」の聖地、宿院にある住吉頓宮のすぐ北側に鎮座する式内社の開口神社のことだとされています。 ここは、通称「大寺」とよばれ、天平時代に行基が念仏寺を建立し、神仏習合の霊地となって以来、朝廷や幕府・民衆の祈願所として発展してきた所です。 毎年8月1日に住吉大社から神輿などの神幸があって「荒和大祓」が行われる堺宿院頓宮は、開口神社の南方に隣接していて、本来は、古代の湊に近接し一体となる重要な聖地であったことが考えられます。 神秘的な大祓の儀式は、海神から贈られた潮干珠を埋めた所という境内の飯匙堀(いいがひぼり)で執り行われています。 ところで、開口神社は、鹽土老翁神・素盞鳴命・生國魂神を祀り、別名「三村明神」と呼ばれます。 神社の由緒書には「神功皇后が三韓(朝鮮半島)より石津浜に上陸され、塩穴松原にて押熊王の反乱を平定するべく戦勝祈願の祈祷をしたおり、老漁師が赤目魚(鯛)を献上したことを吉祥の証と喜ばれ、八重潮路に向かう地に、鹽土老翁の御魂をおまつりせよとの詔により開口神社が創建され」たと説明があります。 『大阪府全誌』の同社説明(下記)には、 「社記によれば、神功皇后の三韓を征して凱旋し給ふにあたり、鹽土老翁神この浦曲に影向あり、眞住吉の國と宣ひしに依りて此の地に鎮座しまいらせ、其の影向ありし時、今の川尻といへる所に於て御食を進め奉りしに、初めて口を開きましましけるにより開口の社名を爲し」と記されています。 開口神社の大祭は、古来陰暦八月朔日、明治17年(1884)以降は、9月12・13日に改められ、現在「八朔祭」として布団太鼓・芦原御旅所への神輿の渡御が行われるという。 開口神社の南側から舳松(へのまつ)一帯は、古代には和泉国大鳥郡塩穴郷と呼ばれていた所で、神社の西方には茅渟海がせまり、旧堺港を含む大濱一帯の堺浦は、別名「八祖浦」「葦邊」とも呼ばれていたようです。 「八祖浦」の名は、開口神社に八祖神がおられるため、あるいは八祖は八十艘のことで、神功皇后の時に新羅の朝貢船八十艘が着いた所だという伝承にもとづいているようです。また、近くの舳松町及び九艘小路の地名は神功皇后が九艘の船を九本の松に繋がれたことに起り、甲斐町の地名も神功皇后が胄を宿院の内に埋められたことから「胄の町」から変わってきたとの伝承があるようです。 (資料) 開口神社 『大阪府全誌』より 開口神社は、甲斐町東1丁にあり、一に三村明神といひ、延喜式内の神社にして鹽土老翁神・素盞鳴命及び生國魂神を祀れり。 境内東側にある影向石 いこまかんなびの杜 |