玉 櫛 の い わ れ |
大和川の上流、竹原井頓宮跡遺跡近くから東側上流の亀の瀬方面 河内平野の中央部に残されている地名の中には、日下や額田・若江・川俣など、はるか古代の昔から呼び続けられてきた地名がたくさんある。 地名がどのようにして誕生してきたものなのか、それぞれの地域における郷土の歴史をふり返る上で、大きな謎を秘めているように思われるが、ここでは、生駒山ろくの一画、東大阪市の花園の周辺にあたる玉櫛(串)と周辺の地名に焦点をあて、そのいわれを考えてみたいと思う。 玉 櫛 明 神 近鉄河内花園駅のすぐ南側の住宅地の一画、花園本町の花園北小学校のすぐ南側に地域の氏神さんである津原神社が祀られている。 南北600mにわたって続く参道の北端に鎮まる津原神社の地は、古い地割の区画である条里制にもとづいた「玉」の里、その北西端「三十一」の区画に鎮座している。 平安時代の『延喜式』神名帳に載せられたいわゆる式内社で、天児屋根命・天玉櫛彦命・天櫛玉命を祀り、古くから近郷七村の総社として「玉櫛明神」と呼ばれ、篤く信仰されてきた。 本殿の北側には、楕円形をした「津原池」と呼ばれる神池があり、ここが御神体の池だと伝えている。 津原神社の西側〜南西にかけて残る古い家並みは、古来、市場村と呼ばれた所で、元々はさらに南方にある八尾市上之島の地域にまでつながる「三野郷」の地域、中世の頃には池島地区を含めて「玉櫛荘」と呼ばれた地域の一画にあたり、生駒山ろくの古代史を考える上で、重要な位置を占める地域の一つでもある。 櫛笥の流れ着いた玉櫛大明神(津原神社) 津原神社本殿背後の「津原の池」 ところで、津原神社の御祭神の内、天児屋根命は枚岡神社の主神と同じ神で、古代祭祀を司った中臣氏の祖神である。 天玉櫛彦命は、『旧事本紀』という記録によると、一足早く天孫降臨して、広く河内地域を地盤とした古代豪族物部氏族の祖神、饒速日命(にぎはやひのみこと)に随伴して天下った多数の氏族の中に、「天玉櫛彦命 間人連(はしひとのむらじ)等の祖」と登場する神にあたる。 『新撰姓氏録』にも左京の神別氏族として、「間人連・間人宿禰(すくね)」が居り、先祖が「神魂命(かみむすびのみこと)五世孫玉櫛比古命之後也」と登場する。天櫛玉命も同じく随伴の神で、鴨縣主等の祖とされる神である。 いずれの神々も、この地に古くから勢力をもった物部・中臣両氏族につながる有力な在地氏族の存在が考えられるところである。 津原神社が祀られる花園本町や南側に続く玉串元町を中心とした旧市場村をはじめ、南は八尾市に入った福万寺村・上之島村へと南北に細長く旧玉櫛川に沿って続いていた地域一帯は、古代から「三野郷」と呼ばれ、三野・御野あるいは美努などと記録に登場して歴史的には一つのまとまりのある重要な地域であった。 津原神社の参道と玉櫛大明神の額が掲げられた石鳥居(元禄期) 平安時代から中世にかけた頃は、恩智川の東側にあたる池島村を含めた広い地域が、摂関家藤原氏の荘園「玉櫛荘」となっていた。 ここは、関白藤原頼道が平等院を建立した際に、同院に寄進されたと考えられており、後の南北朝時代には南朝方の土豪楠木氏の重要な拠点であったといわれている。 また、上之島には式内社である御野縣主神社(祭神 角凝魂神(つぬこりむすび)・天湯川田奈命(あめのゆかわたな)があり、古代には河内平野の南半に及ぶ広い範囲を支配した御野(三野・美努)県主が祖神を祀った神社が祀られている。 櫛笥が玉櫛に ところで、この地がなぜ玉櫛(串)と呼ばれることになったのかである。 旧の河内の国の西端にあたる大阪市平野区正覚寺の地に鎮座する旭神社の摂社にかかわる『若宮八幡宮縁起』によると、今から千数百年前にあたる奈良時代の天平勝宝6年(754) 8月のこと、風雨が月を越えてやまず、八幡宮のご神託によれば、櫛笥(くしげ)と橘(たちばな)を水上より流し、それらが止まった所に神を祀れば、水難を止め、農民を救えるであろう、とのご託宣であった。 そこで、大和と河内両国の境より、櫛笥と橘の二品を流したところ、智識寺という寺院のある山下から、それぞれ分かれて流れ、北へ流れて櫛笥が止まった地に神を祀ったものを「玉櫛明神」と称し、また、川の名前も玉櫛(串)川と呼ぶことになった、と伝えている。 玉櫛明神に祀られている先のご祭神が、果たして荒れ狂う河水の猛威を鎮める力をもった神々であったのかどうか、よくわからない。 流された櫛笥とは、櫛などの化粧道具を入れる箱のことであるが、美称として「玉櫛笥(たまくしげ)」とも呼ばれ、タマすなわち玉は魂に通じるもので、神や霊が宿るものであったのだろう。 現在では、住宅で埋めつくされ、玉櫛川という川が流れていた昔の姿は、まったく想像することができない。 柏原から西方堺の方へ新川を掘って切り替え、千年以上に亘る洪水との戦いの歴史から解き放たれるきっかけとなった宝永元年(1704)の大和川付替工事までは、古絵図などに描かれているように、近世のころの旧大和川の流路は、柏原から北へと流れ、さらには長瀬川(久宝寺川)と玉櫛(串)川の二本の支流に分れていた。 北流してなおも100m以上もの川幅のあった玉串川は、花園駅あたりでさらに二股に分れて低湿地に流れ込み、古代には入海の名残である大きな湖へと流れ込んでいたようである。 発掘調査により、各所で古い河道が発見されていて、河内平野を貫流していた旧大和川の流路は、洪水等によりたびたび変遷をくり返してきたことは当然である。近世以降、川筋は農地より高い天井川となり、川堤にそった高い地形のところを中心に集落が営まれてきた。 市場村の名は、川の水上交通や堤防沿いに続く古道の要所として、古くから多くの物資と人が行き交う「市」が存在して、大いに賑わう古い町があったと考えられる。 玉櫛明神と旭神社若宮八幡宮の位置図 (但し、旧河道や池は江戸時代) 橘はどこへ さて、橘の方は、摂津の国に近い西方の渋川郡へと流れ、賀美(カミ、現在の加美)郷の川中にあった小島に止まったので、その地を「橘の小島」と呼んで東大寺の八幡宮を勧請して若宮と仰ぎ、神として祀った所が、『若宮八幡宮縁起』の伝わる旭神社の摂社若宮神社の鎮座地とされる。 以来、神社では橘をご神木と定め、当時は太上天皇も御幸されたと伝わる。 勧請されてきた東大寺の八幡宮というのは、恐らく天平勝宝元年(749)に若草山の麓に、大仏殿の守護神として九州の宇佐神宮から勧請されてきたという手向山八幡神社の神を、再び勧請したものと考えられる。 なお、賀美郷は、古代渋川郡五郷の一郷で神が居られるという意味から、その名が起こったと思われるが、平野川の北側の旧河内国の渋川郡正覚寺・鞍作・加美各村周辺の地域である「橘荘」と呼ばれる地域に属していたと考えられる。 旭 神 社 旭神社の摂社若宮八幡神社 橘荘とは中世の荘園であった橘島荘で、その範囲は旧大和川に接し、称徳天皇ゆかりの龍華寺や式内社である渋川神社の祀られる植松〜渋川、守屋と厩戸皇子(聖徳太子)の戦いの地に建てられた勝軍寺のある太子堂(以上八尾市)、さらには平野区加美(現大阪市)へとつながる東西に細長い地域が、橘嶋あるいは龍華(たちばな)嶋であったと考えている。 橘嶋の範囲もさることながら、流された橘と龍華の地名の共通した呼び名に、大きな謎が秘められているように思われる地域である。 櫛笥と橘が流れ下った河道 櫛笥と橘の二品が流されたという「大和と河内両国の境」であるが、大和川の上流の大阪府(柏原市)と奈良県(北葛城郡王寺町)の境にあたる「亀の瀬」辺りか、あるいは少し下流の川筋が大きく蛇行し、近年の発掘調査によって北側の段丘上で発見された「竹原井頓宮跡(青谷遺跡)」付近であったと考えられる。 その地は、少し下流にあたる安堂の東岸山ろくにあったとされる智識寺南行宮と共に、奈良時代に入って元正天皇らが平城宮と難波宮との間を行き来される山越えの行幸道「竜田道」の途中に設けられた離宮があったと推定されている所である。 櫛笥が流れ下ったとされる玉串川は、江戸時代の宝永元年(1704)に行われた大和川の付替工事以降は、盛り上がった砂地の川床が玉井新田などに開発され、現在は灌漑水路として一部残るだけとなっている。 一方、橘が西方の摂津国境近く、河内国渋川郡賀美郷の「橘の小島」へと流れ下った川筋というのは、今ではほとんど窺い知ることができない。 ただ、先に橘嶋について説明したように、屈曲した古い道や水路などの様子から、旧大和川の西の支流である旧長瀬川(久宝寺川)が、八尾市植松(JR八尾駅)付近でさらに大きく西へ枝分かれして蛇行し、西方の加美付近で狭山池に発する東除川を合流させ、さらには平野郷を過ぎた所で同じく狭山池を源とする西除川を合流させて西北流していたさらにもう一筋の太い旧大和川の支流の存在・旧河道の復元が可能である。 この旧河道の北側は、古代から渋川郡の郡域、南側は志紀郡の郡域として河道が郡の界となっていた可能性があること、さらに『続日本紀』には宝亀元年(770)7月に、志紀の渋川、茨田の堤と合わせて延べ三万余りの人により堤を修造したこと、同3年(772)8月にも大雨と大風によって茨田堤6ケ所、渋川堤11ケ所、志紀郡5ケ所が同時に決壊したことなど「渋川堤」の激しい決壊と大修築の記録が登場する。 参考 [河内平野の洪水年表] また、天皇の行幸道として「渋川路」の名も登場する。 河道の分岐点近くの植松に鎮座する延喜式内社の渋川神社(祭神 天忍穂耳尊・饒速日命)は、小高い堤防状の地形上にあり、周辺には「龍華島」や龍華川(橘川)の名も存在していたことも考え合わせると、本来の川名は、渋川という川であったと考えられる。 龍華嶌荘 渋川神社 龍華嶌荘と刻む石燈籠 絶えず荒れ狂う大洪水の危機にさらされていた河道であったからこそ、橘が流れ着いた所に神を祀り、水の神の猛威を鎮めたという「縁起」の内容も理解できるところである。 これはまた、後年に行われることになったものの、結果として失敗に終わった摂津職大夫和気清麻呂による新河道開削工事の着手へとつながるものであった。 そもそも流された品が、なぜ櫛笥と橘であったのか、そこには大きな謎が秘められている。さらに両地点は大和川の川上からすると、分岐した二つの河道の川下、ほぼ同距離の地点であることも注目してもいいだろう。 (2010.10.16) いこまかんなびの杜 |