生駒山西ろくの劔・玉・鏡の社



     

生駒山の西ろく(東大阪市〜八尾市東北部)に存在する劔・玉・鏡の社、これらの神は偶然に祀られただけなのでしょうか。
HP「神奈備にようこそ」の掲示板に「大阪の三種の神器 」のことが書かれていたのを思い出し(2003/12/30)、ご意見は多々あろうかと思いますが、1986年に思いつくまま「河内ふるさと文化誌 創刊5周年記念 わかくす1986秋季号(通巻10号)」に寄稿した拙稿『劔・玉・鏡の社』
(一部改定)を紹介したいと思います



 
生駒山西ろくの劔・玉・鏡の社 

河内地方の古代史は、まさに謎とロマンを秘めています。
生駒山地の西ろく部に広がる河内平野〜山ろくにかけた地域には、縄文時代から古代にかけての集落跡や古墳群など、実に数多くの遺跡が分布しています。
これらの遺跡の多くは開発に伴って発掘調査が進められ、各々貴重な成果が次々と得られており、河内地方に展開された原始古代の姿をより鮮明に浮びあがらせてきています。
さらに、河内平野における自然環境や古地形の復原、歴史地理的研究等の進展も合いまって、河内地方の古代史を考える上で新たな視点が与えられると同時に、新たな問題提起も行われています。
そもそも河内地方は、山ろくに広がる広大な旧大和川によって形成された沖積地帯を地盤とし大きな生産力を秘めた五畿内の中心的地域であると共に、水上交通を介して西日本に及ばず、大陸への門戸的位置を占めていました。
こうしたことからだけでも、古代における河内の果した重要な役割が想起されるところです。
それだけに、古代国家形成前後における河内を考える上で、山ろくに広がる遺跡や遺構・古社寺・古地名・伝承その他あらゆる古代への手がかりの一つ一つとその関係の中に、まだまだ多くの謎を解く鍵が秘められていると思われます。
今ここに河内平野の一画、生駒山ろくに一つの不思議な相関関係を見いだすことができます。それは、生駒山ろくに数多く分布する古社の中より見い出される延喜式内社の相関関係です。



今回、問題とするその一社は、生駒山の直下に鎮座する 石切劔箭命神社 です。
この社は、旧河内国河内郡芝村(現東大阪市東石切町1丁目)に鎮座し、『神名帳』には二座と記され、二神が祀られていたことがわかりますが、『河内名所図絵』
(江戸時代の享和元年発行)には「上ノ社は哮峯にあり、下ノ社は当社也」と記されています。

   
                石切劔箭神社

この内、上ノ社は御親神社ともいわれることから、古くから河内に本居を居き、4〜6世紀に大きな勢力を有した豪族物部氏の祖先神の内、上ノ社は饒速日命
(にぎはやひのみこと)、現在地にあたる下ノ社は可美真手命(うましまでのみこと)を祭神としたものであると考えられています。
最近、下ノ社地の一画の発掘調査で、氏寺であった法通寺の堂宇基壇跡(白鳳時代創建)が発見され、生駒山の山腹に位置する「宮山」から上ノ社跡?とも考えられる平安時代以降の祭祀跡が発掘調査により見つかっています。

その二は、石切劔箭命神社の南方約5.2km、大和へ越える古道の一つ、十三峠越の登口近くにあたる山腹に鎮座している 玉祖神社 です。
この社は、旧高安郡神立
(こうだち)村字山口(現八尾市神立)にあり、その祭神は、玉祖宿彌の祖神の天明玉命(又は櫛明玉命)といわれています。

    
                    玉祖神社


玉祖大明神縁起』によると、和銅3年(710)庚戌秋9月、元明天皇の御宇に、周防国佐波郡玉祖神社の分霊を勧請して、この地に祀ったもので、正一位玉祖大明神、当国第二之社との勅宣を賜ったという。
同縁起によれば、遷座にあたっては住吉大社にその鎮座地を求めた所、真東の山ろくに鎮座する恩智神社の社領の大半を譲り受けて鎮座したといい、これら三社は、古代から極めて深い関係を有していたことがわかります。
また、石切劔箭命神社寄りにあたる東大阪市出雲井には、「元春日」と呼ばれ、河内国一の宮の社位を受けた中臣氏の祖神他四神(天児屋命、比売神、経津主神、武甕槌神)を祀る枚岡神社が、河内平野〜生駒山を横切る古道の一つ、暗越
(くらがりごえ)奈良街道の登口近くに鎮座しています。

その三は、玉祖神社の西北方4.9km、河内平野を北流していた旧大和川の支流、玉櫛川を越えた平野部に鎮座する 若江鏡神社 です。
この社は、旧若江郡若江南村
(現、東大阪市若江南町2丁目)にあり、大雷大神が祭神と考えられています。
『文徳実録』に「斉衡元年
(854)四月乙卯朔丙辰、授河内国大雷火明神従五位下」と見えるものがこの社とされます。

 
       若江鏡神社本殿           本殿前にある雷の手形石

以上の三社は、すでに明らかなように、古代神器の三種 " 鏡・玉・劔 "の名をその社名に有しています。というより都合よく多くの社の中よりこの三社を取り上げたというべきかも知れません。
しかし、生駒山ろくの、さ程広くない地に、偶然にも " 劔・玉・鏡 "の名をもつ式内三社が近接して存在することとなったとは思えません。
この三社の存在する地域は、当時大阪湾が深く河内平野部に入りこみ、生駒山ろく近くまで広い入江をつくっていました。
『万葉集』などに記されよく知られる日下江の入江です。
近年における古代地形の復元研究成果が、河内湾〜潟〜湖へと変遷した河内の入江の存在を明らかにしています。三社の内、最も北側に位置し、入江の東岸にあたる石切劔箭命神社周辺の扇状地末端部付近には、縄文時代後半期の遺跡としてよく知られ、かっては神武東征にまつわる聖蹟調査が行われた日下遺跡(貝塚)や、畿内でも最も早く稲作文化の定着を見たと考えられる鬼虎川遺跡などの弥生時代の大遺跡をはじめ、入江の先端に築かれ、大戸首
(おおえのおびと)の墓との説もある塚山古墳(5世紀)など、いくつかの古い古墳が山ろくに展開しています。
また、入江の南岸ぞいに位置した若江鏡神社の西方にも、瓜生堂遺跡など弥生時代〜古墳時代を中心とした大遺跡群が広がっています。
さらに、最も内陸で山ろくに位置する玉祖神社周辺には、玉作り遺跡と考えられる高安遺跡のほか、西ノ山、花崗山古墳などの前期古墳や、御野県主の墓とも言われ、生駒山ろくでは最大規模を誇る心合寺山古墳など、山ろく地域の首長墓と見られる前期〜中期の前方後円墳の存在が注目されます。
これら三社の関係が地理的に近接して存在している事実にとどまらず、さらに 「劔」の社を北にして、「鏡」の社を南西に、「玉」の社を南南東に配して、各々の社が約4.9〜5.2kmのほぼ等距離をおいて、あたかも生駒山を背後にし、さらには「日下江の入江」に向かうかのように、三社を頂点とするほぼ正三角形の謎の神域をつくっているのです。
それも物部氏の遺跡を巻き込んでいるのです。

これらの事実は、一体何を意味するものでしょうか。ここに三社の不思議な相関関係とその成立の宗教的・政治的背景を想起せざるを得ません。
古代において「 劔・玉・鏡」 に関する記事として「天孫降臨神話」の中に、邇邇芸命が天下る時、五伴緒(天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命)を従えさせ、八尺瓊勾玉、鏡、草那芸剣を授けたという話が想起されてきます。
五伴緒の内、天児屋命は、枚岡神社を祭祀した中臣氏の祖神であり、伊斯許理度売命は鏡作連の祖神です。
また、玉祖命は玉作連の祖神であり、「 劔・玉・鏡」 の社の存在は、河内の一画それも生駒山ろくに古代神話の世界を形づくっているように思えるのです。
古代における「劔・玉・鏡」の三者は、各地の巨大な初期の古墳からセットとして発見されることが多く、これらは権力の象徴で、宝器としての性格をもっていたのと同時に劔・玉・鏡は、賢木にかけられ、神器として権力者間における支配権の委譲に関る宗教的儀礼に用いられたようです。
『住吉大社神代記』に記される「膽駒神南備山本記」に、神の山として登場する生駒山の山ろくは、天孫降臨より先に天降ったと伝える饒速日命の末裔、物部氏の本拠であり、中でも日下〜石切周辺の地は、早くから中心的勢力の拠点であったと考えられる地域でもありました。
さらに神武東征伝承の中で登場する、生駒山越えによる大和平定のための上陸地「草香邑青雲白肩之津」に比定される地域です。
生駒山麓に展開される「劔・玉・鏡」の社で結ばれる謎の宗教的三角域は、そうした神話と伝承の中に存在し、各々の社の祭祀集団に及ばず、日本古代国家形成史上あるいは大和朝廷による国家統一過程の中で、この地を舞台にして展開された広汎な支配権の委譲など、極めて重要かつ画期的な事件の展開の中で生まれてきた祭祀的エリヤとみなし得るのではないでしょうか。
(原田 修)

 参考
  『枚岡市史』第2巻別編・昭和40年・枚岡市
  井上正雄『大阪府全誌』大正11年・大阪府全志発行所
  梶山彦太郎・市原 実『大阪平野の発達史』地質学論集7号・昭和47年
  吉田東伍『大日本地名辞書』第1冊之上・明治33


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