赤 留 比 売 命 神



   



 赤 留 比 売 命 神 (大阪市平野区平野東2丁目)

『住吉大社神代記』に住吉大神の子神として「赤留比売命神(あかるひめのみことのかみ)の名が登場します。
同神の下には小さく二行に「中臣須牟地神」と「草津神」の名が付け加えられています。
赤留比売命神を祀る神社は、住吉大社の東北東約6km、旧河内国に接する摂津国住吉郡平野郷町の東端近く、平野公園の横に鎮座する「赤留比売神社」に比定されています。
この赤留比売神社は、平野郷町の北に鎮座する杭全神社
(くまたじんじゃ) 祭神-素盞鳴尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊・速玉男尊・事解男尊)の飛地にある境外摂社となっていて「三十歩社」ともいわれています。
三十歩という名称は、応永年間
(1394-1428)の頃、僧覚証が旱魃祈雨のため法華経三十部を奉読して霊験があったため、あるいは社地が三十歩であったためだという伝承があります。
古来から雨を祈る神だと信仰されてきました。
杭全神社の境外摂社となったのは、大正3年に郷社杭全神社へ合併されたためです。
平野郷町を囲んでいた土塁に接する境内には、本殿のほかに明治30年に西方大字背戸口から合祀された天神社(祭神-菅原道真)と同社末社の琴平神社があるほか、本殿の北側に接して、当社がかって住吉大社の末社であったことを物語る住吉神社があります。

     
                    赤留比売神社(西より)

祭神の赤留比売命神とは、『古事記』応神天皇の段によると、新羅王の子である天之日矛に罵られ祖国の難波へ逃げ還った美しい妻とは、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神として祀られた神であり、赤い玉(『日本書紀』では白い石)から生まれ変わったという姫神であったとされる。
住吉大神と密接な関係があった赤留比売神社では、明治4年(1871)まで住吉大社の6月晦日の御解除日には、平野坂上家の七名が荒和祓家として花笠を着けた児童が乗馬し、桔梗の造花を捧げて神輿の供奉をつとめたといわれます。
また、旧6月27日には、大祓を済ませた河内恩智神社の神輿は、玉祖神に留守居役を任せて出発し、はるばる赤留比売神社の東側、平野川対岸に位置する河内領鞍作村の字春日(旧春日町)にあった御旅所まで行き、住吉大社の名代として薄墨の神主の迎えを受けて引継ぎ、一夜勝間で遊ばれて翌日恩智へ環御されたという(『恩智神社縁起』)。
摂・河国境附近に鎮座した赤留比売神社が、河内国中の六月御解除に関係したものかは不明ですが、住吉大社と摂・河の神々とをリレーする東祭ともいうべき祭祀形態の変遷が存在したのかも知れません。

    
      手水鉢には三十歩大明神を刻む      摂州平野大絵図(宝暦13年)

ところで、赤留比売神社は、もと平野郷町の背戸口門から南西の住吉へ通じる「住吉堺道」に添った所である平野流町門外字中山(長山?)にあったと伝えています。
福島庸人氏の論考によると、赤留比売神社は、寛文2年
(1662)に旧地より末吉道祐によって現在地へ遷宮され、旧社地の近くに「大海神」「西大海神」の字名(『東成郡誌』)が存在していることから「流町中山に金刀比羅宮(金山孫神)を、流町字大海神に赤留比賣命を、西大海神に住吉大明神を祭祀しており、祭祀は住吉の社家衆「薄墨の神主」津守家の分家筋と考察されます」(「住吉大神と河内の神々」『すみのえ通巻232』平11)と想定されています。
こうしたことから、赤留比売の神が、平野の郷町が形成される以前の相当古くから、摂津・河内の国境近くに住吉大社と深い関係をもって祀られた海神であった可能性があると同時に、赤留比売が逃れて来た伝承などを考えると、新羅の蕃神から住吉の国内と百済など他国からの渡来人を護るために神として祀られたものと考えてもいいのではないでしょうか。

      

ところで『住吉大社神代記』には、その他の子神として「中臣須牟地神」・「中臣住道神」・「須牟地
(道)曾禰神」・「住道神」が登場し、「件の住道神達は八前なり(天平元年十一月七日、託宣に依り移徒りて河内国丹比郡の楯原里に坐す。故、住道里の住道神と号く)」とあって、住道神=須牟地神が、住吉郡周辺に合わせて八神が祀られていたようで、子神「赤留比女命神」の下に小さく中臣須牟地神ほかも記されている所を見ると、古くは同所に須牟地=住道神も一緒に祀られていたと考えられます。
赤留比売神社の南方にある喜連の地は「きれ」と読み、もとは摂津国住吉郡杭全
(くまた)郷、さらに古くは河内国丹比郡の北端にあたっていました。喜連の地名は「久禮(呉)」が転訛したものだといわれます。
喜連にある楯原神社は、字寺町に所在していますが、所伝によると、古くは同社が字楯原という所にあって、建御雷命・大国主命を祀っていたが、兵火にかかり現在の地に遷座し、字十五の龍王社を合併して境内の別殿に祀って奥之院とした。
その龍王社とは、平野郷から赤留比売の神を勧請したものだと記されています(『大阪府全誌』)。
ここで、旧社地の字楯原というのは、楯原神社の西方約1km、現在の喜連西1丁目の一画であったようで、平野の背戸口から住吉へ通じる住吉堺道と、喜連から西方の湯里へ通じていた道が合流する今川に近い所にあたり、平野流町の赤留比売神社旧社地とも比較的近い距離にあって、両社の深い関係が読み取れます。その字楯原には、神功皇后が楯原神社に参拝の時に禊祓いをされ、継体天皇の皇女都夫良郎姫の伝承を伝える「ツブレ(都夫良)池」という池があったという。

    
        楯原神社(南から)             楯原神社拝殿(西より)

このほか『大阪府全誌』に載せられる喜連の地の古伝承を記した「北村某の家記」には、喜連の地が大々杼
(おおど)国大々杼郷と呼んだこと、崇神天皇7年に、大々杼名黒に詔して祖神の建御雷男命を「楯之御前社」、大国主命の霊代である国平の御鉾を「鉾之御前社」として祀ったことが記されていて、その祀られた地は、楯原神社の旧社地の字楯原の地であったといいます。
また、喜連村字十五の赤留比売を祀っていた龍王宮については、「旧社三十歩神社の分霊を勧請して杭俣郷龍宮と称え、今奥宮と称す、明留女命なり、旧地を龍宮といひ、今十五といへるはその縁なり」と記されています。三十歩を分けて十五なのだろうか。
ここにいう旧三十歩神社とは、平野流町字中山にあった赤留比売神社の旧社地のことと思われ、そこが龍宮と呼ばれていたこと、平野郷への遷座以前の相当古い時期に、赤留比売神が恐らく住道神も一体として旧社地より喜連村字十五の地にも勧請され、杭全郷龍王宮と称していたのではないかと考えられます。
その時期は、喜連の地が摂津国住吉郡域に含まれる前の河内国丹比郡の時期であったのではないでしょうか。

いずれにしても赤留比売神は、龍宮あるいは龍神と考えられていたようで、天平元年
(729)に託宣により移されて「楯原の里に坐す」住道神と記されるのは、摂津・河内両国・郡境ラインの変遷に伴って、喜連の地にも住吉大社と深い関係をもって赤留比売神と住道神とが一体となった形で祭祀されていたのではないでしょうか。 
 
(2007.12.19)


                      

         いこまかんなびの杜