生駒の杣山と和泉の杣山


 
                                    生駒山(生駒谷より)

 
神の山と神の道


 万葉集に「難波とを 漕ぎ出てゝ見れば神さぶる 伊古麻多可禰(生駒高嶺)に雲そたなびく」(大田部三成)と詠まれているように、大阪府と奈良県の境に連なる生駒山地は、古くから住吉大社の神聖な神南備山であった。
 『住吉大社神代記』(天平3[731])の「膽駒神南備山本記」によると、垂仁天皇と仲哀天皇の時代に熊襲国・新羅国・辛嶋を従わせた後、 (神功皇后が)長柄泊から膽駒山の嶺(生駒山)に登られた時に、住吉大神の本誓(みうけひ)により、生駒山は甘()南備山として、住吉大神(住吉大社)に寄せ奉られたことを記している。
 山々の木実や榊で住吉大神をいつき祀れば、天下が平穏に守護されるとして、以来、四至を定めて住吉大社の神の山となったのである。

 その四至とは以下の範囲をあげている。

  東を限る、膽駒川・龍田公田。
  南を限る、賀志支利坂・山門川・白木坂・恵比須墓。
  西を限る、母木里の公田・鳥坂に至る。
  北を限る、饒速日山。


と記され、ほぼ生駒山地全体が神南備山とされていたのである。
 一方、生駒山地の南方、二上山から一際高く連なる葛城・金剛山地、さらに西方へ横峯となって連なる和泉葛城山地の山嶺と裾野丘陵部を含めた広大な地域についても『住吉大社神代記』の「山河寄せ奉る本記」によれば、垂仁天皇(景行天皇の時代とされる)が、同じく住吉大神の願いより、武内宿祢の父の武雄心命を派遣して寄せ奉った、とされる広大な神領地が広がっていた。
 「本記」の一部については後半で紹介するが、膽駒神南備山つまり生駒山地と比べても相当広い地域であり、一部大和の吉野地域の北辺を含んでいた可能性もあると考えている。
 ここでは、各地で御田を開墾し、山間の谷川を掘り返し、河道を整備して清水を導き、溝(うなで)や堰を築造して河水を御田や民の田に導かせるなど、壮大な山野の開墾と灌漑が繰り広げられたことを記している。
 膽駒神南備山(生駒山地)とは異なり、山々の榊や木の実、産物で住吉大神をいつき祀ることは勿論であるが、住吉大社の経済的繁栄の基盤あるいは国家の平安を守護する上で重要な神領地の一所として維持されてきたものと考えられる。
 こうした大和・河内・和泉国に跨る広大な葛城山地周辺の神領地の管理については、山預かり役として石川錦織許呂志という人物が務めていたという。
 『住吉大社神代記』の最後には、神領地などを巡視して廻ったことが次のように記されて
(私訳)いる。

 斉明天皇の御世の初めの夏五月庚午の日(一日)、住吉大神は、わが山を巡検しようといわれ、御馬に乗られて油笠を着けられて、兄乃山から葛城嶺・膽駒山を馳せ到り、午時に住吉へ馳せ帰られて御飯酒された。そして、(播磨地域の)阿閇(あべ)・魚次(なすき)・椅鹿山(はしかやま)も御覧になって還られた。則ちそれらの山には、神の道があるのである。

と締めくくられている。
 この興味深い話は、『日本書紀』斉明天皇元年の夏五月庚午(一日)の記事と類似し、
(*馬に乗られた大神ではなく) 空中に龍に乗って唐人に似た者が、青い油笠を着けて、葛城嶺より膽駒山に馳せ隠れ、午時になって住吉松嶺の上から西に向かって馳せ去った。
と記されて(私訳)いる。
 両書の関連性については詳述を省くが、恐らく『日本書紀』の文は『住吉大社神代記』の原書を基にしたものではないかと考えられ、書紀の「龍に乗って唐人に似たもの」とは、住吉大神のことであり、「住吉松嶺」とは、住吉大社の「膽駒神南備山」の嶺、即ち生駒山の主峰を指しているものと考えている。

 
神の山に吹き始めた仏教の風

 ところで、仏教が我が国へ公伝したのは、西暦538年あるいは552年に、百済国の聖王が仏像や僧・経典を伝えたことに始まると言われている。7世紀に入ると仏教興隆が進められ、官寺の造営は勿論のこと、渡来系氏族の寺院(氏寺)の造営が盛んに進められて行く。
 この時代は、すでに生駒・葛城山の山ろく各地域にも、定住の地を与えられた百済や新羅をはじめとした渡来系氏族が、優れた技術を駆使して池溝の築造・水田の開発・各種の手工業生産活動などを営みつつ、小規模な古墳を多数群集して築造する、いわゆる群集墳の形成が始まった古墳時代後期にあたる。
 そうした渡来系氏族の中には、すでに道教や仏教の考えにもとづいて呪術や山間修験を行う僧が現れ、当然活動が始められていたものと考えられる。
 生駒山から葛城山系と周辺地域には、役優婆塞(役小角)の修行に関わる伝承地や、開創と伝える山岳寺院が多く点在するほか、私度僧からやがて大僧正を任じられた僧行基(百済系高志氏)による伝道と社会福祉活動に関わりの深い寺院のほか、農業生産向上のために行われた利水・土木関連遺跡が点在している。
 当時、藤原京から平城京への遷都・造営に伴い、宮殿や官寺・氏寺などが移転されていったというが、当然そのままの移動だけでは済まない。
 必要とする多量の建築材などはどのように集められたのか、あまり明らかでない。

『続日本紀』によると、平城遷都の直前の和銅3(710)229日、初めて守山戸を指定して、各地の山の木の乱伐を取り締まった、と記されるように、各地で建築材の乱伐が激しかったことを物語っている。
 一方、行基を中心とした集団によって大和・河内・和泉・山城の地域を中心に進められた「凡そ四十九院」の寺院や橋梁などの建設・建造に必要な多量の建築材は、どのようにして調達されたものか、これらの地域の中央に一際高く連なる生駒と葛城の山嶺は、長らく住吉大社の神聖な神の山として護られて来たものの、各地の山間部では山林修行者が増え、氏寺等の建築用に木々の乱伐と荒廃が進行していたことは十分考えられる。

 膽駒(生駒)神南備山は行基寺院の杣山に

 鎌倉時代に東大寺沙門の凝然が書きとどめた「竹林寺略録」(『大日本仏教全書』所収)には、行基の事績について、次のような注目すべき記述が登場する。要点を(私訳して)紹介すると、

 和銅8(715)、霊亀に改元。右京の三條三坊に菅原寺が建てられた。喜光寺と号する。この寺を本寺となし四十九院等をその末寺とした。若い頃から老令までの間に各所に四十九院を建てた。行基菩薩が入洛した際、寺吏乙丸が居宅を行基に施したものであった。
 和銅6(713)、大和国平群郡の生馬山は、菅原寺と別院を建立するための杣山とする勅施が下された。その勅免書には、
 立菅原寺并別院寺々杣山四至注顕事
  合山地壹所者
    四至 限東富山峰竝郡堺。 限南平尾谷竝山道
       西河内面高多尾和。限北山城山堺
   右大和國平群郡之内生馬山
 右のとおり、和銅6(713)に元明天皇からの勅免があり、生馬山が菅原寺と別院建立のための杣山となったのである。これにより菅原寺の占地山とされ、生馬山東ろくの大きな陵(おか)を示されて、その地を行基菩薩の死住山としたのである。 ・・・・・・。それより先、慶雲3(706)には、左大臣の橘朝臣諸兄(初めの名葛城王の時)は、河内国[*後に和泉国]和泉郡木島郷内の田地等を行基菩薩に施して、別院等のための杣山とされた。・・・・・・・・・略・・・・・・・・。

との解釈でいいのだろうか。
 この中で、生駒山が杣山とされたその範囲つまり四至が明記されていることに加えて、さらに先だって和泉の杣山などが行基に与えられたことも記しており、大変驚きである。
 和泉の杣山に関しては後述することにするが、「竹林寺略録」の記された鎌倉時代よりも先、平安時代末期の安元元年(1175)、泉高父によって記された『行基年譜』では、菅原寺の建立は養老5年から6(721722)のこととしており、「寺吏乙丸」は「寺史乙丸」と記している。

 
 
       上は菅原寺(喜光寺)     下は垂仁天皇陵南側から西方の生駒山遠望

 生駒(生馬)の杣山の範囲は


 さて、生駒山が杣山とされたその範囲であるが、「右 大和國平群郡之内生馬山」と記され、平群郡の郡内であったことが分かる。
 東側は「東を限る、富山峰ならびに郡界」と記されている。「富山」は平群郡
(へぐりぐん)と東側の添下郡(そうのしもぐん)の境、現在は生駒市と奈良市を画し、生駒谷の東側を南北に連なる登美または鳥見の山のことで、現在の矢田丘陵上に沿ったラインとなる。
 南側は、「南を限る、平尾谷ならびに山道」と記している。平尾谷は、龍田川が南流する生駒谷の奥の山裾、行基の墓がある竹林寺(生駒市有里町)のすぐ南には小平尾村があり、古代より難波と奈良を結ぶ直道の暗越(くらがりごえ)奈良街道が通じていて、この辺りが杣山としての南限になっていたようだ。
 西方に連なる生駒山の方は「西を限る、河内面高多尾和」と記されている。生駒山の分水嶺で河内と大和両国の国界となっているので、河内国に面した(生馬山の)高い多尾和、つまり山の頂ラインということになる。
 ただし「清涼山歓喜光律寺略縁記」(『全日本仏教全書』寺誌叢書第四 所収)には、生馬山が勅免により杣山とされ、その四至の記述が登場するが、四至の範囲についてほぼ同じあるものの、西を限る地名は「西限河内面高多和尾」と記していて、西を限る尾根筋の名としては「多尾和」ではなく「多和尾」の記載の方が正しいと考えられる。
 杣山の北限については、「北を限る、山城山堺」と記されている。「山城山」については、生駒市の北端にある高山町の丘陵部が、山城国相楽郡(京都府精華町ほか)に接しており、大和・山城国界の山が「山城山」と解される。
 高山地域は、平安時代には興福寺の「鷹山庄」として添下郡に属していたようだが、行基の時代には平群郡の北端域に含まれていたことも考えられる。

 
              生馬(生駒)の杣山範囲想定図

 このように、生駒山の東斜面から生駒谷を挟み、東に一段低く連なる矢田丘陵の尾根上までの東西4.55km、生駒谷の南端に位置する小平尾から富雄川の源流地域にあたる高山地域までの南北約10kmにも及ぶ広大な範囲の山と丘陵部が、行基関連の寺院の建築用、あるいは修理のために用いられる建築用材を得ることのできる杣山として、元明天皇より勅許が与えられたことが知られると同時に、古くから住吉大神の山あるいは神南備山として厳しく守られてきた生駒山であるが、その一画とはいえ、仏教寺院のための杣山として、朝廷により定められたことは、住吉大社にとって以降の盛衰を左右する極めて重大な事件となったに違いない。
 このような事態は、大和・河内・和泉にとどまらず、神領の尊厳を脅かす重大な事態を迎えたであろう。

 
和泉の杣山について

 続いて和泉の杣山に関してであるが、先に記した「竹林寺略録」には次のように記している。再掲(私訳)すると、

 
                       和泉葛城山地の遠望

 (*生馬山が杣山となった)その前の慶雲3(706)丙午の年に、左大臣橘朝臣諸兄(初めの名葛城王の時)は、河内国和泉郡木島郷内の田地等を菩薩[*行基]に施され別院等のための杣山とされた。・・・・・・・・・・・・・・・。

ことを記している。
 また、「菅原寺起文遺戒状」(『大日本仏教全書』所収)にも、木島郷の杣山について、下記のように記して(私訳)いる。

 ・・・・・。河内国和泉郡木島郷杣山であるが、橘朝臣諸兄大臣が知行の時、近い国内の山から寺院建立のための材木を得たいことを願い、了承されたものである。慶雲3(706)327日に杣山の四至と範囲を定める許しを得た。・・・・・・・。

との内容を記している。但し、当時は葛城王と呼ばれていた。
 ところで、河内国和泉郡木島郷とは、後には和泉国、当時はまだ河内国に含まれており、平安中期の『和名抄』には、和泉郡の郷として「信太・上泉・下泉・輕部・坂本・池田・山直・八木・掃守・木島」の10郷が記されていて、木島郷は「木乃之末」と訓み、『大日本地名辞書』(吉田東吾)によれば「泉州志云、木島郷水間村。相傳、昔此境山深而多良材故日木島。按するに今木島村(大字水間)島村、貝塚町、麻生郷村・有眞香村の地なるべし」と記されている。
 「泉州志」(『五畿内志』)には「水間、三松、森、名越、清兒  以上五村木島郷」のほか、「木
島山 木島郷一名杣山」とも記されている。
 「木島郷」は、和泉(葛城)山地を源流として西北へ流下する近木川(こぎかわ)に沿った中流域、現在の貝塚市水間寺の周辺から木積村にかけた和泉葛城山地の山ろくから山間にかけての地域であり、田畠や山林が、行基の別院等の建立のための杣山あるいは寺院の維持の費用のために田地等が施入されたことを表わしている。

 
           水間寺(貝塚市)、寺の南方に杣山が広がっていた

 二本の谷川が合流する渓谷に建立されている
龍谷山水間寺(天台宗)は、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創したと伝える古い寺院である。
 「清涼山歓喜光律寺略縁記」(『大日本仏教全書』所収)には、
 天平3(731)58日、聖武天皇は河内国和泉郡木島郷の杣山を重ねて官省符地とし、菅原寺の修理料として勅入された、と記して(私訳)いる。

 ここで、特に注意されるのは、橘諸兄の名が登場することである。
 慶雲3(706)3月といえば、平城京の遷都以前の時代であり、葛城王はその年の2月に五世王とする詔によって、臣下扱いから皇親になったばかりで、年齢も20歳過ぎのことであった。
 当時、行基の年齢は30代後半で、いまだ生馬草野仙房を活動の拠点とする前であり、生駒山の東西山ろくに恩光寺・隆福院・石凝院の建設を始めとして四十九院の建設に着手する前の時代の出来事であったことになる。
 文脈から判断すると、未だ無位の葛城王が、和泉葛城山(茅渟山)の北ろく一帯、和泉郡木島郷・横山(後の横山郷)の地を広く支配していたのではないだろうか。これが事実であれば、母の県犬養三千代の存在無くしては考えられないだろう。また、葛城王の名も、和泉葛城の地域と深く関わって名づけられた可能性もある。

   
           和泉木島の杣山周辺(国土地理院の航空写真を使用)

 さて、この木島郷の杣山については、『大阪府全誌』の「木島村大字森」の所に、次のように記されている。

 「旧郷名は和名抄に「木島 木乃之末」と載せられ、其の地は往時山深く良材多かりしを以て、此の名を爲せりと伝ふ。山は謂はゆる木島の杣山にして、一に泉の杣とも呼べり。行基遺戒に依れば、行基嘗て菅原寺を建立して本寺となし、四十九院を以て末寺となし、河内国泉郡木島の杣山は橘諸兄卿の知行所なれば、其の良材を請ひ得て建立寺院の用に充てしと。古詠あり。
 萬葉  宮木引 いつみの杣に立民の やむときもなく 恋わたるかも 人丸
 同   世の中は 泉の杣木とる民も ふるきをさらに 引おこさなん 常磐井入道
  (以下略) 」

と記されている。文中で行基遺戒とは先の「菅原寺起文遺戒状」(『大日本仏教全書』所収)のことである。

  
                      木積より木島杣山方面

 また、水間寺のある近木川の谷口~山間部一帯には、木積(こつみ)と呼ばれる地域があり、『大阪府全誌』によると「旧観音寺の縁起に依れば、村名は僧行基の畿内に四十九院を建立するに当り、本州木島の杣山より其の用材を伐り出せしとき、本地に其の用材を積み置きしより起これりといふ。」「観音寺の址は字下出にあり。寺は聖武天皇の勅に依り、僧正行基七堂伽藍を建てゝ自刻の観音像を安置せし所にして、・・・・・」と記されていて、木島の杣山から伐り出された材木が、文字どおり集積されていた所だとの伝承を残している。観音寺の跡には国宝の釘無堂が残されている。

 
 
                    木積の観音寺跡と国宝釘無堂

 木島の杣山に関連して、江戸時代の元禄~正徳年間頃に、摂津住吉大社の旧社人、土師(梅園)惟朝により編輯された『住吉松葉大記』勘文部の「山口祭之事」に、由緒深い杣山神領地の体を失っていた播磨国三草山の記述の中に、「杣大工は神領和泉国小嶋住人也。先祖重代の杣人なり」「和泉国小嶋とは、泉州和泉郡に木島といへる處あり。是也。住吉造営の時御材木を伐出す杣人、和泉木嶋(きのしま)に住する事、勘文のみならず延徳文明の記銘にも見えたり」と記載されている。
 住吉大社神領の一所、小島は和泉国の最南端、紀淡海峡に近い海岸に位置する岬町多奈川小島であり、木島との混同がみられるが、住吉大社の造替の時の材木を伐り出す杣人がいたことを示す記録が残されていたと理解できる。

 横山の杣とは

 これに対し、「行基年譜」(『続々群書類従』所収)にも、同じく慶雲3(706)の事として、次のように和泉郡横山郷の杣の記述が登場する。
 原文のまま引用すると、

「行年卅九歳丙午 文武天皇十年、慶雲三年午丙午 天皇和泉國和泉郡横山郷内以、横山蜂田寺并四十九院修理料杣被施入、七月八日、勅使正四位下犬上王、從七位下津守宿禰得麻呂、正八位上出雲國勝等、點定四至云々

と記している。

 文中、「横山郷内以、横山蜂田寺・・・」は、句点の打ち間違いではないかと思われ、横山の後に付くのではないかと考える。
 とすると、行基が39歳、慶雲3(706)の年に、文武天皇は和泉国(この時は河内国)和泉郡横山郷内の横山を、蜂田寺と四十九院の維持修理のための杣山として施入された。78日に勅使として正四位下の犬上王、従七位下の津守宿禰得麻呂、正八位上の出雲国勝らが派遣されて、杣山の地の四至(範囲)について点定した。
ということになる。勅使の一人に住吉大社と関りが深かったであろう津守宿禰得麻呂という人物が含まれていることは注目される。
 ここでは、「横山郷」と記されているが、『和名抄』の中には和泉郡内に横山郷は存在しない。

 
                横山の杣はこのあたりか

『大阪府地名大辞典』によると「横山 槙尾山および槙尾山北麓、槙尾川上流の父鬼川・東槙尾川流域に位置する。[古代]横山郷 平安期に見える郷名、和泉国和泉郡のうち。「和名抄」に見える池田郷のうちと考えられる。・・・」と説明されている。
 確かに山間流域の村々は、古くから横山荘と呼ばれてきた所である。「泉州志」には「横山」、「和泉名所図会」には「横嶽 横山荘の東嶺をいふ。又、櫛形、或は七越ともいふ。[狭衣]に和泉なる横ヶ嶽と書るは此名区也」と同様の説明が記されている。
これは、槙尾山から西南の七越峠に連なる分水嶺をさすのだろう。
 なお、横山郷に接する池田郷の国分村には、国分寺(福徳寺)があり、光明子誕生地の伝承がある。

 住吉大社神代記に登場する横山は

 ところで『住吉大社神代記』の「山河寄せ奉る本記」の中にも、広大な神領地の中の地名の一つとして「横山」が次のように登場する。(『訓解住吉大社神代記』より)

「・・・・・。亦、山預の石川錦織許呂志が仕へ奉る山名は所所に在り。
兄山・天野・横山・錦織・石川・葛城・音穂・高向・華林・二上山等と号日す。(葛城山は元の高尾張なり。) 
 四至 東を限る 大倭國の季道・葛木高小道・忍海刀自家(おしうみのとじのいえ)・宇智道(うちのみち)
      南を限る、木伊国伊都縣道側。並に大河。
    西を限る、河内泉の上鈴鹿・下鈴鹿・雄濱・日禰野
(ひねの)公田・宮処・志努田(しぬたの)公田・三輪道。
    北を限る、大坂・音穂野公田・陀那波多乃男神女神・吾嬬
(あづま)坂・川合・狭山・塡田・大村・斑・熊野谷。」
「・・・・。神児等、皷谷より雷の鳴り出づる如く集いて、墾田原・小山田・宇智の墾田を開墾佃く。羽白熊鷲を誅伏て得たる地を熊取と云ひ、日晩れ御宿賜ひし地を日寝と云ひ、横なはれる中山あるに依りて故に横山と云ひ、横なはれる嶺ある故に横嶺と云ふ。・・・・・ 略・・・・・。」

とあり、横山の山名・地名が二ヶ所に登場する。
「横なはれる中山あるに依りて故に横山と云ひ」から判断すると、和泉郡の横山郷、横山荘付近ではなく、木島や木積地域の東に和泉葛城山地から独立して低く連なる東西5kmほどの神於山(こおやま)と呼ばれる山があり、古くは横山と呼ばれていたのかもしれない。
 いづれにしても、和泉の杣山は、和泉葛城山地の北斜面に広がる木島郷・横山郷一帯にまたがった広大な杣山であったのだろう。

 葛城王(橘諸兄)と行基


 葛城王(橘諸兄)は、行基による四十九院(別院)等の建設のため、知行していた和泉国和泉郡木島郷内の田地等を行基に施入し、寺の建築用木材を得るための杣山としたとする記録については、すでに記したとおりである。
 葛城王(橘諸兄)については、和泉国の歴史を語る場合、重要な人物として登場するので、少し触れておきたい。
 『行基年譜』には、庶民への布教伝道のために各地で建立した四十九院等のほか、潅漑・治水・交通の整備ために築造した池・溝・樋・堤・橋・船息、その他役民救済のために設置した布施屋など、今の公共事業ともいえる各種の建築・築造事業が数多く記されている。
 この中で、和泉国に築造された八つの池の一つ「久米多池」のほか、「行年六十七歳甲戌 聖武天皇十一年、天平六年甲戌、澄池院 久米多 十一月二日起、在和泉國泉南郡下池田村、・・・」と記される澄池院(久米多寺)がある。

 久米田池と久米田寺

 久米田池は、水間寺から北東へ約6.5kmほど離れた丘陵地(岸和田市)にあり、和泉葛城山を水源とする牛滝川の河水を引き込んで貯溜する和泉国最大の人工池である。

 
   久米田池・正面の山並みは木島杣山方面        隆池院 久米田寺

 『大阪府全誌』には、久米田寺および久米田池(八木村大字池尻)について次のように記している。

「久米田池は南方にあり、往時此の地方は水乏くして灌漑を缺き、旱天に當りて民の苦むこと殊に甚だしかりしかば、聖武天皇の神亀二年(725)二月、橘諸兄及び僧行基の二人に命じて池を穿たしめられ、天平十年(738)七月に至りて竣工せしもの即ち當池にして、同天皇は光明皇后と共に文武百僚を率ゐて行幸あらせられしといふ。・・・・・・。」
「久米田寺は、久米田池畔字持の木にあり、臥龍山隆池院と号し、真言宗高野派宝寿院末にして釋迦牟尼佛・普賢菩薩・文殊菩薩を本尊とす。行基已に前記の久米田池を穿ち、功成りて願を満せしかば、橘諸兄を大壇越として當寺を創建せりといふ。・・・・。」

と記し、末尾には『行基自記縁起』という縁起がのせられていて、次のように記している。詳述は控えるが、重要な縁起であるので要点のみ抜粋(私訳)すると、

 神亀2年(725)2月5日に寶池を掘り始め、天平10年(738)の初秋(*7)に寺の工事も完成した。五間四面の堂が一宇、釈迦如来・普賢・文殊像を各一体安置する。塔婆一基、鐘楼、経蔵、僧房二宇、その他の房が二十あり常に僧が住む。行基の父の高志定知は天皇の勅裁を仰ぎ、和泉国の役人による寺の兆限四至が定められた。すなわち、東は角河の流れ・春木峯・上津川東峯・七層峯を限る、南は葛木の横峯、西は松村登路・延年峯・切坂上、北は熊野詣大道で限られる四至内の田畠地の利を寺の維持にあてる。・・・・・・・・略・・・・・・・・。


との興味深い内容が記されている。
 同様の記録は「隆池院縁起」(『続群書類従二十七下』所収)の名でも載せられているが、文字が□不明の個所が多い。
 『行基自記縁起』に記されているように、広大な池の築造から院の建立まで、葛城王(橘諸兄)が大きく関わっていたことが解ると共に、池や寺院用の木材は、当然ながら和泉の杣山から調達されたものと想定できる。
 なお、隆池院(久米田寺)の西側の丘一帯には久米田古墳群があり、主墳の全長135mを測る前方後円墳の貝吹山古墳は、4世紀末の古墳であるが、橘諸兄塚ともよばれ、近くの女郎塚は光明皇后の廟跡あるいは橘諸兄夫人の墓と伝承されてきている。

 泉井上神社の伝承


 さらに、長らく和泉国の中心地であった和泉市府中町に鎮座する泉井上神社にも、葛城王(橘諸兄)に関わる興味深い伝承が残されている。
 『大阪府全誌』から要点のみを記すと、

 泉井上神社は、古来より清水の上に祀られてきた式内社で、別名井の八幡宮・水内社とも呼ばれてきた。祭神は、神功皇后・仲哀天皇・応神天皇を主祭神とし、三韓征伐の時に付き従った四十八神が配祀されている。

 霊亀2(716)、和泉監が建てられて国府が置かれた時、和泉地域の大鳥・泉穴師・聖・積川・日根の五社の分霊を社の東側に五社総社として祀ったといい、橘諸兄の蘖子(ひこばえ)の諸貞が両社に奉仕して以来、代々田所氏により祭祀されてきた。
 神主の田所家は、橘氏であり先祖は橘諸兄から出ている。聖武天皇が久米田池を掘らせた時、橘諸兄が工事の監督をしていた際に誕生した蘖子の諸貞は、和泉国に土着して桜井田部の家を相続し、その家を田所と名づけたのが同家の始まりである。本地が国府となり、五社総社が建てられたことから祭主職となり、総社及び泉井上神社の祭祀を務めた。・・・・・・・。
など、興味深い内容が記されている。
 泉井上神社で配付されている由緒書『和泉国総社泉井上神社』によると、
ご社領は霊亀元年和泉諸上
[もろえ]勅命により珍努県主倭麿の領主を世襲し、数百町の神田(土地)、神戸(人民)を領有し、左大臣橘諸兄の子諸貞より代々祭主職兼国司在庁をついで国司、勅使代、公文所、寺社を総括し、近郷を領有しました。
と説明されていて、和泉諸上と珍努県主倭麿という二人の人物が登場する。
 『大阪府全誌』にも「泉井上神社」と合わせて「珍努縣主の旧地」の所で、次のように説明されている。要点のみ抜粋すると、

 
           泉井上神社(和泉市府中)・右手に祀られる五社総社

 この地(*国府村大字府中)は、また珍努県主が代々居住してきた所で、『姓氏録』の和泉国皇別氏族として、珍縣主は、豊城入彦命三世孫の御諸別命の後裔とされ、さらに『日本書紀』には雄略天皇14年の夏4月の条に、(*玉縵を盗んだ事が発覚した)根使主は、日根へ逃げ隠れて稲城を造って迎撃したが、官軍により殺された。天皇は根使主の一族を二つに分け、一分は大草香部民として皇后(*草香幡梭姫皇女)に与え、一分は茅渟県主に賜わり負嚢者(ふくろかつぎひと)とした。
『続日本紀』の光仁天皇の天応元年(781)3月の条には、正六位下の珍努県主諸上が外従五位下を授かった記録を載せ、さらに平安時代前期の仏教説話集『日本霊異記』の中の「烏の邪淫を見て世を厭ひ善を修せし縁」の主人公で、聖武天皇の代に和泉国泉郡の大領であった血沼県主倭麻呂が、烏の邪淫を視て世を厭ひ、家を出て妻子と離れ、官位を捨てて僧行基に従って善道を修して信厳と改めた、・・・・。

という話も載せていて、珍努県主との関係、あるいは奈良時代には珍努県主諸上、さらには血沼県主倭麻呂という人物が実在して、大きく関わっていたことが分かる。
 神社の社領についての由緒(上記)は、少し分かりにくい所があるが、すなわち社領は、霊亀元年(715)に珍努県主諸上(和泉諸上)が、勅命によって珍努県主倭麻呂(倭麿)の領地を世襲して引き継ぎ、数百町の神田、神戸を領有して、左大臣橘諸兄の(*蘖)子の諸貞から代々に亘って、祭主職と在地の国司役のほか、勅使代、公文所、寺社を総括し、近郷を領有した、という意味なのだろう。
 そこには、茅渟県主・和泉監()・橘諸兄・行基の深い関係が読み取れそうである。

 


 
縣犬養氏族との関りは

 最後になるが、父を敏達天皇の後裔といわれる美努王、県犬養三千代を母にもつ葛城王(橘諸兄)は、行基の寺院建立のために和泉の杣山の施入等に深く関わったと考えられる。文武天皇の慶雲3(706)当時、位階は未だ無位の20代はじめで、葛城王の若い時代の所領地などの具体的な内容は全く不明で、和泉地方で官職等に就いていたかどうかの記録もみられない。
 和泉杣山の施入は、父の美努王が晩年の慶雲2(705)、從四位下にあって摂津大夫に任じられた翌年であり、天武~元明天皇の世に忠を尽くして命婦として仕えてきた母の県犬養三千代が橘宿禰姓を賜わった前々年の出来事となる。
 三千代は、その後も橘宿禰姓の頭に県犬養氏族の名を冠し続けるが、県犬養氏族の本拠地あるいは所領がどこの地域にあったのか詳しくは分からない。
 「和泉志」には泉南郡の人物として『続日本後紀』の編集にも携わった「縣犬養貞守」をあげて斉衡年間(854-856)に和泉国守となったこと、また、和泉府中の泉井上神社から南西約2km、久米田池の北西約1.5kmに位置して池水の恩恵を受けてきた箕土路(みどろ)(岸和田市)に、犬養堂と呼ばれて「河内川縣犬養神祠」の神が祀られていたことを記している。
 この箕土路村については『大阪府全誌』には次のように記され(私訳)ている。

 もと八木郷の内にあり「犬飼村」と呼ばれてきたが、後に箕土路村に改められた。旧村名の「犬飼」の名は、『姓氏録』和泉国神別に
若犬養宿禰、火明神十五世孫古利命之後也と見える犬養氏が本居としていた所から起こり、旧犬養神社に犬養宿禰を祀っているのは、同氏がその祖を祀ったものなのだろう。・・・・・。犬養神社 (天手力男命・犬養宿禰)は、明治411125日に近隣の式内社の夜疑神社へ合祀された。

と説明されている。
 箕土路村を抜け出た川は、現在は真っ直ぐ北西方向に改修されているが、昔は蛇行した川で、集落の西方に架かる橋の所に立てられた「箕土路遺跡」の顕彰碑によると、

 

          
   箕土路の水路(天の川)と箕土路遺跡の顕彰碑

 箕土路の地を流れる川の名は天の川といい、これを挟んで犬飼堂と七夕神社があったが、広い神域も兵火により失われた。調査により寺の建物や瓦窯などが見つかり、この地域に字三宅という地名があり、昔の役所の屯倉があったと思われる。

との内容が記されている。

 犬養村及び犬養神社(七夕神社)が存在したということは、槙尾川・牛滝川の合流する和泉国の中心に近い地を地盤にして、和泉葛城山にまで及ぶ相当広い地に、葛城王を含む縣犬養氏の支配地が存在していた可能性も十分考えられるところである。

 最後に、父の美努王と葛城王の家系は、祖先より代々続く深い佛教信者であったといわれるが、母方の縣犬養氏族も同様であった可能性もあり、杣山の施入、中でも和泉の杣山の施入は、早くから北側大鳥郡の高志氏や蜂田氏など渡来系氏族への支援、さらには行基の仏教活動に対する深い理解と援助の手を差しのべてきた結果と言えるのではないだろうか。

2019.10.10 原田作成




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