草 香 山 と 饒 速 日 山 に つ い て

  

生駒山の北嶺上で発見した巨石遺構に関連して、「草香山と饒速日山」について紹介いたします。

 拙著 『東大阪消防』 第72号 2004.1.31 よもやま昔ばなし14 から転載



今回は、生駒山のふもとに広がる日下地域の歴史に登場する「草香山」と「饒速日山」(にぎはやひやま)を考えてみることにいたします。
まず、日下と書いてなぜ「クサカ」と読むのかということですが、その語源にはいろいろな説があります。
その中で、古くは「日の下(した・もと)のクサカ」という言い方があり、クサカの地が、山越え道を通じて大和の入口にあたる重要な地として一早く開かれ、この地クサカの背後に連なる生駒山から上る太陽つまり日下(ひのした)を「くさか」と訓むようになったという説が有力です。
古代の文献、『古事記』や『日本書紀』の神武天皇東征の物語に、皇軍が日向から筑紫〜吉備を経て大阪湾のさらに奥、生駒山のふもと日下の入江にあった「河内国草香邑青雲白肩之津」に上陸したことが書かれていて、大和への入口の地として初めて日下の地が登場します。
皇軍は、大和へ入るため、一度は南下して龍田に出ようとしましたが難行して再び引き返し、直ちに東へ向かって膽駒山(生駒山)を越えようとしましたが、これを知った長髄彦(ながすねひこ)は、孔舎衛坂(くさえざか)で激しく防戦したため、皇軍は戦利なく後退し、兄の五瀬命(いつせのみこと)も負傷された。
これは、東方の日(太陽)に向かって進んだための不吉である、として草香津へ引返し、盾を立て並べて雄叫びしたので、この津を「盾津」と改めた、という話はよく知られています。
皇紀二千六百年(昭和15年)の記念に向けて行われた神武天皇御東遷聖蹟調査にもとづいて、現在の孔舎衙小学校の東側に高さ3.3mの「神武天皇聖蹟盾津顕彰碑」が大阪府によって建てられています。
続いて、南河内や泉州地方に巨大な大王陵である前方後円墳が築かれた仁徳天皇(第16代)の時代には、天皇の次妃であった日向之諸縣君牛諸の娘、髪長比売との間で生まれた兄の波多毘能大郎子 (大日下王)と、妹の波多毘能若郎女 (若日下部命)の兄妹が日下邑の地に住んでおられたようで、日下邑にはその御名代としてそれぞれ大日下部(草香部・草壁)・若日下部が設けられていました。
しかし、第20代の安康天皇は、皇位継承のホープであった大日下王の妹、若日下王を妃として要請されたが、その際、信契として使者の根臣
(ねのおみ)へ託した宝物の玉縵が横領着服され、大日下王が勅命に応じ無かったと報告されたため、天皇は逆鱗して王を滅ぼし、嫡妻の長田大郎女(おおいらつめ)まで奪って皇后として寵愛したという、無惨な物語が知られています。
また、雄略天皇(第21代)の時代のこととして、天皇が日下邑の若日下王のもとへ妻乞いのため「日下之直越(ただごえ)道」で生駒山を越え、河内へ行幸された時、山の上から国見されると、堅魚木
(かつおぎ)を上げた立派な舎家が見えたので、誰の家かと問われたところ、志幾の大県主(おおあがたぬし)の家であると答えた。
大県主は、不遜を陳謝して謝罪の印に白犬を献上し、天皇はそれを若日下王に妻ごいの印として賜うた。この時、若日下王は、天皇が日を背にして幸でませるのは甚恐
(かしこ)し、いずれ自ら参上仕奉ると答えたという話しも有名です。
最も強大な権力を有していた應神〜雄略天皇の時代に、日下と天皇家との密接な関係のある重要な地域日下の地であったことが分ります。

日下の真西には、草香江を隔てて大阪の上町台地には、御父の仁徳天皇の都、難波高津の宮が位置していました。
『古事記』には日下江の蓮を詠んだ歌も登場しますが、『万葉集』には、天平5年(733)に草香山を越える時に神社忌寸老麻呂が詠んだ歌「直超のこの道にしておしてるや難波の海と名づけけらしも」があり、奈良時代においても草香山を通る日下の直越道が、生駒山越の幹道となっていたことがわかります。

さて、神武天皇と長髄彦との激戦の場であったという「孔舎衛坂」あるいは「日下之直越道」さらに「草香山=日下山」は、一体どこにあったのか、文献を参照しながら考えて見ることにしましょう。

まず先に、古代の日下の地域は、一体どのあたりであったのかということになりますが、奈良時代の地名を記した『倭名抄』には、日下郷という名は見当たらず、石切周辺の芝・神並・植附の各村周辺だけでなく、北側の日下・布市・善根寺村を含んだ広い地域が大戸
(おおえ)郷と呼ばれ、大江=大きな入江に沿った一つの大きな郷となっていた様です。
5世紀までは天皇家と深いつながりのあった草香邑・日下も、大きな歴史の流転とともに、奈良時代にはすでに有名無実の地名となっていた様です。

次に、日下の直越道ですが、これまでに中垣内越・辻子越・暗越などの諸説がありましたが、日下から真直ぐ東に草香山〜生駒山を越えて大和へ通じる道という意味であることには、間違いはないでしょう。
その道筋は、戦前の神武天皇東遷聖蹟調査などには、江戸時代初めまで日下村に属していた善根寺に鎮座する善根寺春日神社横から東へ上り、豊臣時代に大坂城築城のための石奉行を勤めた足立家の先祖、和気清麿を祀る八幡山(標高46m)から南東に上り、恵比須山の下を通って、清水が湧出し、神武天皇の兄の五瀬命が負傷した傷を癒したと伝わる龍の口(標高230m)を経て、南の尾根筋を真直ぐ東へ上っていくコースが日下直越道と推定されています。
尾根の突端には、「神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑」があります。
しかし『枚岡市史』には、その登口は、善根寺春日神社側からではなく、古代日下邑のあった日下の池之端付近からまっすぐ山腹を上がり、先の尾根筋を厄山の南を通って一気に山上まで登るコースが、まさに日下直越道であったとされます。私もこれには異論のない所です。
この直越道は、生駒山の最高所の稜線を走る信貴生駒スカイラインとこれに並行する縦走路を、横断(通称灯籠ゲート386m)して山越えする古道で、もとは生駒市側の田原あるいは宝山寺〜南生駒方面に通じていたものです。 
灯籠ゲートの西には、平坦で広い谷間があって、直越道はこの谷に上がってきます。ここには高圧線の鉄塔が建ち、古くは「国見山」と呼ばれた山塊(410m)があり、西方の河内平野〜大阪湾まで一望できる見晴しのいい所で、雄略天皇が国見あるいは歌を詠んだ場所と伝えています。
また、峠に当たる灯籠ゲートから南に続く峯は、「哮峯
(たけるがみね)」と呼ばれ、巨岩の露頭には注連縄が張られていたと言われます。
周辺の峯〜さらに南に高く続いていく峯は、地元では「草香山」あるいは「饒速日山
(にぎはやひやま)」と呼ばれていたようで、縦走路を少し南へ行き、スカイライン料金所の南西に位置する平坦な稜線上には、、物部氏の祖神である饒速日命の祭祀と関連するかも知れない巨大な石造物=磐座を最近発見しております。(生駒山北嶺上の巨石遺構)。      

     

戦前、勝井純氏が著いた『神武天皇東遷御聖蹟考』には、
「大和では、これを饒速日山と称し、河内ではボタンザキと称しています。河内でいう饒速日山は、そのボタンザキの中腹に位置しています。」
また「山上に在った饒速日命を祀ってあった社を上古上ノ社と称し、現在の奈良県生駒郡富雄村鎮座の登彌神社及び大阪府中河内郡旧日下の地域に鎮座された、石切劔箭神社を何れも下ノ社と称していたと云われていますが、上古は此の山を神体として礼拝していたもので、社殿等は無かったようであります。然るに、其後、饒速日命の子孫、生駒山の東西に分布するや、各々、その根拠地に神社を造営して宇麻志麻治命を祀りこれを下ノ社と称し、山上にも神殿を造営して上ノ社と称したらしく、其後、更に、山上の饒速日命の社の御神霊を河内側の此の命の子孫は、その下ノ社に、大和側も亦、これを今の富雄村の下ノ社に奉遷し、草香山上の上ノ社は自然荒廃してしまったらしいのであります。」
と書かれています。

さらに検証の必要があるものの、生駒山の主峰
(642m)から一段低く続く北峯(583m)付近から峯下付近は、草香山あるいは饒速日山と呼ばれ、神武天皇の時代はもちろん、それに先立って天降ったとされる饒速日命を祖神とする物部氏を祀る山であり、難波高津宮から真東の日が昇ってくる山であり、古代の河内と大和を結ぶ直越道がとおる古代史上きわめて重要な山であったことになります。  

 (2003.11.22 原田)


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