謎 の 磐 船 伝 承 地 を 探 る 


     


    磐船とは、文字どおり岩で造られた神の船の意味ですが、歴史書には神々が
    天降る際に乗られた天の磐船などとも登場し、本来は磐楠船=磐のように堅
    固な楠の船だったともいわれます。難波の上町台地と生駒山・葛城の山ろく
    に伝わる謎の磐船・岩船の伝承地を探ってみることにします。
    
2007.12.19 / 2011.11.15修正




 石田神社の岩船伝承 (東大阪市岩田町)

若江岩田駅の西方、近鉄奈良線のすぐ北側に大きな楠の鎮守の森が岩田村の氏神の石田神社です。
石田と書いて「いわた」と読み、平安時代の記録『延喜式』に記された河内国若江郡二十二座の内の一社で、誉田別命
(15代応神天皇)・帯仲彦命(14代仲哀天皇)・息長帯姫命(神功皇后)の三神が祀られています。
伝えによると、欽明天皇の代
(6世紀)にこの地に岩船があり、三神がその上に出現されたことから、神社として奉祀するようになったといわれます。
謎の岩船については、神社の80m程北側の水田の中に、二つの円い塚が隣接して存在し、東側の塚は「幸神塚」と呼ばれ、西側は「無名塚」でした。
大きさは共に高さ5m程もある大きな塚といい、幸神塚は塞の神を祀っていた所で、二つの塚はこの地を支配した有力者の陵墓だといわれていたようです。
さらにこの塚のまわりを開墾した際、船に似た長大な岩があって、その長さは東塚から西塚まで達する長さ40mほどの巨大な石で、この不思議な巨岩は、古代の岩船が難破して沈没したものだとも伝えられています。
現在、二つの塚は消滅し、地下に埋没する巨大な岩船は共に見ることができませんが、神社の所在する瓜生堂遺跡東北端で行われた近年の発掘調査では、地下から古墳時代の円筒・形象埴輪片などが多数出土していて、周辺には古墳が群集していたようで、古墳の石室などが埋没していることも考えられます。 
生駒山に望む河内平野の中央、石田神社に伝わる謎の岩船の伝承は、こうした古墳群を造った豪族たちと、新羅征伐を成し遂げ、住吉大社とも関係の深い祭神である神功皇后や御子の応神天皇たちの深い歴史のつながりの中から誕生したものかもしれません。 

      
        石田神社(西方から・背後は生駒山)      石田神社前(東方の生駒山を向く)

 (資料)
 石田神社 
『大阪府全誌』より
石田神社は西方字宮の前にあり、延喜式内の神社にして誉田別命・帯仲彦命・息長帯姫命の三座を祀りしが、後天照大神・天児屋根命を配祀せり。
社傳にいふ、欽明天皇の御宇此の邊の田甫の間に岩ありて、三神其の上に現れ給ひしより、初めて社壇を築きて奉祀せるものなりと。
俗に八幡宮と稱し、明治五年村社に列せらる。境内は八百七十参坪を有し、本殿・拝殿を存す。
末社に稲荷神社あり。氏地は本地及び大字瓜生堂にして、祭日は十月十五日なり。

 (資料)
 幸神塚及び無名塚 
『同』
同社の北方四十間許を距てたる水田中に二箇の塚あり。東なるを幸神塚といひ、西なるは無名の塚なり。今は何れも高さ五尺位なる圓錐形の小塚なれども、四五十年前までは現在の三倍大のものなりしと。
傳説に依れば、幸神塚は昔塞の神を祀りし舊地なりといひ、他の一説にはいふ、両塚はもと本地の氏神を葬りし一大陵墓たりしが、後開拓して水田と爲すに際し、二人の所有者は各其の所有地上に記念として一箇宛の塚を残したるものなりと。
更に一説あり、其の説に依れば之を開墾する時は船に似たる長大の岩石ありて、其の長さは東塚より西塚に達し、全長貳拾餘間に及ぶ、是れ上古航海せる石舟の難破して沈没せるものなりと。
石田神社の記事中に岩船ありと見ゆる岩船は、此の石舟のことを指せるものならん。
往時之を開墾せしものありしに、大盤石のあるを見たるも、暴雨忽然として起り、咫尺晦瞑、其の場に気絶せりといふ。



 
小橋の磐船伝説 (大阪市天王寺区小橋町)

石田神社の真っすぐ西、大阪市内は鶴橋駅の西北にあたる上町台地(
高津丘)の東側にも、古くは磐船山と呼ばれ、ここにも巨大な磐船が埋もれているとの伝承が残されています。
小橋
(おばせ)の里は、天児屋根命の末裔の中臣氏族で神功皇后からこの地を授けられたという大小橋命(おおおばせのみこと)ゆかりの地で、小橋には字名として「岩船」の名が残されています。
江戸時代の『摂津名所図絵』には比賣許曾
(ひめこそ)神社方面から小橋村-味原池-産湯清水稲荷のある小高い丘とその手前には木の生えた低い「磐舩山」が描かれています。

    
           『摂津名所図絵』             高津磐舟事蹟碑

    

                   小橋周辺史跡図-明治20年


古代の磐船山から高津の一帯は、上町台地上を境に東は玉造江に臨む東成郡、台地西側は大阪湾を望む西成郡にあたり、周辺には仁徳天皇ほかを祀る高津宮や、住吉の神々と関わり深い生国魂神社(祭神-生嶋神・足嶋神)など難波の重要な神社があります。
産湯清水稲荷神社のある小橋公園の背後にもとあった小高い丘は、もと愛来目山
(法蔵山)と呼ばれ式内社の比賣許曾神社(祭神-下照比売命)の旧鎮座地との説がある所で、天正年間に織田信長の石山本願寺攻めの頃に火災を受けて焼失したため、鶴橋駅の東方、旧東小橋村の摂社牛頭 天王祠の場所へ移されたのが現在の神社と言われます。

      
           比賣許曾神社            産湯清水稲荷神社

また北方の玉造に近い宰相山公園の周辺は、もと姫山と呼ばれ、応神天皇の代に新羅の女神の阿加流比売
(あかるひめ)が、夫神の天日矛(あめのひぼこ)からのがれて難波にたどり着き、留まった「比売島」の場所ともいわれ、その比売神は「比売碁曾神」になったといいます。 
周辺は、4〜5世紀にかけた古代史上、大きな謎を秘めた地域にあたっているといえます。
ところで、磐船山の旧跡は、江戸時代には小さな丘をなし、別名「下至土野原」
(げしどのはら)と呼ばれていたようです。
『摂津国風土記』の逸文には、高津の名のいわれとして、天稚彦
(あめのわかひこ)が天降った時、天の探女(あめのさぐめ)の神は、天の磐船に乗ってここまできて、そこに泊まったことから高津という、と記されています。
天稚彦は、大己貴神
(おおなむちのかみ)つまり出雲の国の大国主命の娘である下照比売の夫神であり、天探女は下照比売あるいは侍女とも見られていていることもあって、古代の高津・味原・小橋の地域一帯は、まさに下照比売伝承の霊地であったといえるでしょう。
比賣許曾神社の縁起には「本宮の東方に天の磐船あり、上古は地上にあったが天長3年
(826)の6月洪水により周辺の丘の土が崩れて、磐船が埋没することになったため、下至土野原(げしどのはら)と言うようになった」と記されているという。
周辺は、江戸時代の元禄の頃から 開墾されて田園に変わり、井戸を約13m程掘ったところ、平坦な巨石に突き当たり、周辺のどこを掘ってみても一つの磨かれた磐石であったという。
その巨大な磐船については、永久6年
(1161)成立、三善為康の編纂した『朝野群載』によると、長さが約70m、幅約35m、石には凹凸があって宝珠が置かれ、如意珠と名付けたこと、磐船は東北の方角を向き、地上には祠があって石の霊を祀っていたことなどが記されています。
上町台地の磐船は、東方の住吉大社の神領(神南備山)であった生駒山地に向けられていたのか不明ながら、その伝承は、渡来の女神阿加流比売あるいは下照比売と、住吉三神と神功皇后を祀る住吉大社の創祀、あるいは古代難波で行われた祭祀と深い関係をもって成立したのかもしれません。

 (資料) 
 磐舩舊蹟 
『摂津名所図絵』より
小橋村の西南田圃の中に一堆の丘あり 字を下至土野原
(げしどのはら)といふ 土人は俗に磐舩山とよぶ 是則天探女命 磐舩に乗て天降り給ふ時 其とど満りし地也とぞ 故に高津といふ名あり 下至土野原といへるは かの磐舩土中に鎮座し給ふ よって下至土と作り 古れ比賣古曽大神の御正躰也 磐舩土中に蔵(かく)れ満しましいる よって比賣語曽といふ 風土記に天探女乗磐舩到于地 以天磐舟泊故號高津云々 万葉の註これに同じ 社家註進記云人皇十一代垂仁帝御宇 神石美簾の天女と化し こに蔵れたるより比賣古曽と宣ふ これを俗に姫蔵(ひめこそとも書く 又順徳院の八雲御抄にも阿免のいはふねの泊る所を高津といふとそ記し給ふ 又朝野羣載日 摂津国東方於味原有石舩 往年下照姫神垂跡云々 其磐舩四十尋餘 亘二十尋餘 石中有凹凸 置中央寶珠一顆 名日如意珠 其舩向東北侍智者 揺動其上有祠 祭祀石霊 云々

 (資料)
 比賣許曽神社 
『同上』
味原郷小橋村にあり 延喜式日東成郡比賣許曽神社名神大月次相嘗新嘗 三代実録日貞観元年正月授従四位下 今小橋村生産神とす 例祭正月十二日比賣許曽祭 五月五日菖蒲刈神事十一月二十五日橋掛の神事
祭神 下照比賣命 大巳貴命の御女にて天稚彦命の妻 味耜高彦根命の妹なり 亦の名稚国玉媛或ハ天探女とも號す 神代に天磐舩に駕給ひ此地に天降給ふにより高津と号したる
末社 阿遅速雄祠 若宮と称す 大葉外祠 高津八幡宮 玉敷祠 牛頭天王祠 天満宮 神木賢木殿當社の鎮座は年暦久遠にして詳なら・・


 (資料) 
 姫山と比賣島松原 
『大阪府全誌』より

三光神社の所在地たる姫山は、比賣島松原の遺稱ならんか。
比賣島は摂津風土記に「比賣島松原者、昔輕島豊阿伎羅宮御宇天皇之世、新羅國有女神、遁去其夫、来暫留住筑紫伊岐乃比賣島、乃日此島者猶是不遠、若居此島男神尋来、乃更遷来停此島、故取本所住之地名以爲島號」と見ゆるもの是れにして、其の遁れ来りし女神は阿加流比賣なり。
阿加流比賣の留りたる所は同記のみに依れば、一見四方環海の島なるが如し。
舊志に西成郡の稗島を以て之に擬するは、同地が島なりしと島名の姫島たりしとに依れり。
然るに古事記に依れば阿加流比賣は難波に留りて比賣碁曾神となると記し、且、其の後を追ひ来れる夫の天日矛は、将に難波に入らんとして其の渡の神に塞へられ、入ることを得ずして多遅麻國に去れりと見ゆれば、其の留りし所は難波渡よりも内部ならざるべからす。
難波渡は已に第三聯合の條に於て記せしが如く、同聯合に属する難波碕の北邊なる天満川の邊なりしこと明なり。
是れに依りて見れば阿加流比賣の留りし比賣島松原を稗島なりとするの説は誤れり。稗島にも姫島の稱ありしも、姫島といへるは小島の愛らしさを呼びたるより起れるの稱にして、三軒家に於ける勘助島の舊名も姫島なり。
されば単に姫島の名のみに依りて之を風土記の比賣島の松原なりしとは断ずべからず。然るに此の地は天満川以内なるのみならす、高津丘の東部にありて玉造江に瀕しければ、難波渡を経て此に留り、其の地に松林繁茂し、且水邊にして島地の観ありしが爲め、舊住地の名を之に命じて比賣島の松原と呼び、其の稱残りて後世に姫山の名を傳へしものならん。
附近なる小橋里に式内の比賣許曾神社ありしが爲め、或は同社に因みて此の地に姫山の稱ありしが如く見ゆるも、同社の奮地にあらざるを以て同社とは関係なし。
阿加流比賣の留り居りしは此の地なるも、其の祭られたるは舊住吉郡の平野郷なり、居所と祭地との異れるが爲め、復た或は此の地を其の舊地たる比賣島の松原ならざるべしとの疑を生ずるあらんも、古来祭られたる人にして居地と祭地との同所ならざるもの少からず、阿加流比賣を祭れる平野郷は其の居地たらざれども、其の居地たりし此の地とは遠からず、往時に於ける廣き難波の内たりしなるべし。
かつ此の地の比賣島たらしことの傍証とすべきものあり、即ち左に掲記する中臣宮處氏の本系帳是れなり。其の記事に依れば、大小橋命を比賣島の東南方なる猪甘津の邊に葬るとせり。大小橋命は小橋里の條に記するが如く、小橋里に生れて其の地に住したる人にして、其の付近なる猪甘津に葬られ、其の墳は今の鶴橋町大字岡に現在せり。
本系帳の記事は此の墓地の所在を示したるものなるを以て、付近の名地を標準の基礎に置きたるものなり。故に其の比賣島は小橋里・猪甘津と程遠からざる附近に求めざるべからず。
此の目的を以て同本系帳に記せる方位を逆に取り、大小橋命の墳より西北に當れる比賣島を求むれば、此の地を措いて之に擬すベきものなし。
加之阿加流比賣の後を追ひ来れる天日矛を、古事記には應神天皇の段に記せるも、日本書紀には垂仁天皇三年の條に記し、古事記傳には垂仁天皇の御宇よりも尚往昔のことならんとせり。
古事記傳の説の如くんば、阿加流比賣の遁れ来りし當時にありては、稗島の姫島は其の未だ存在せざりし時代なりしやも知るべからず、かく観じ来れば、阿加流比賣の留りし難波の比賣島の松原を此の地なりとするは、最も穏當の推定には非ざるか。穏當の推定なりとせば、古事記に見ゆる仁徳天皇の豊楽を爲さんとして行幸し給ひし時に、雁の卵を生みし事ある日女島も此の地には非ざるか、尚後の精査を俟つになん。

 (資料) 
 「中臣宮處氏本系帳考詮」
中臣連大小橋臣命者、志賀之高穴穂宮治天下天皇命之御世、誕生於浪速國大縣之味原里 家牒云、那美波夜能久邇淤保賀多能阿台布能佐登 而、石村之豊櫻宮治天下天皇之御世、被賜中臣職、至于浪速之高津宮、治天下天皇命之御世 参御也 仕奉而薨去、故葬祭於同縣 家牒云、淤自阿賀多 比賣島之在東南方、猪甘津邊也、


 (資料) 
 産湯稲荷 
『大阪府全誌』
清水の上に産湯稲荷神社あり、豊玉明神を祀る、比賣許曾神社の境外未社なり。傍社の白狐明神は豊玉明神の臣にして、其の狐よく歌を作りて之を書し、祀官今に其の書を蔵せりと。此の邊には狐穴多く俗に狐谷と呼べり。

 (資料) 山下清水 
『同上』
又山下清水は小橋元町字岩船の百十四番地の一なる舊寂聞院の址にあり、前記の如く大坂六清水の一たりしも、今は僅に古井を残せるのみ。

 (資料) 
 法蔵山・比賣許曾神社の舊地 
『同上』
法蔵山と呼べるは、産湯清水の上なる丘状を爲せる所にして、もと愛来目山と稱せしが、孝徳天皇の白雉二年冬十二月晦味經宮に多くの僧尼を集めて一切経を讀ましめ給ひしとき、其の経机彿具等を此の山に蔵められしより此の名起れりと。
比賣許曾神社の鎮座あし所なりしが、天正年間織田信長の石山本願寺を攻むるに及び、其の兵燹に罹りしかば、村中の父老漸く神璽を護して今の東成郡鶴橋町大字東小橋なる摂社牛頭天王祠に遷座しまゐらせ、其の舊地は従来除地たりしも、慶長十二年十月の検地に際して年貢地となれりといふ。
社は大己貴命の女にして味耜高彦根命の妹なる下照比賣を祀りしが爲め、附近には其の兄君なる高彦根命に因める高彦崎又は大葉刈山等の名を爲し、前者は味原池の東にありて命の降臨地なりと傳へ、後者は味原池の西にありと云ひ、なほ味原郷の名も命の味耜の字に象りしものなりとせり。

 (資料)
 磐船の舊蹟 
『同上』
磐船の舊蹟は小橋元町の南端にあり、今も字を岩船と稱す。里人は磐船山といひ、一に下至土野原とも呼べり。
もと一堆の丘なりしと傳ふれども、今は人家の敷地となれり。摂津風土記に「天探女乗磐船到于此、以天磐船泊、故號高津」と見ゆる磐船の泊りし所なり。
摂津名所図會等に天探女を下照比賣の別名なりと記せるは誤れり、天探女は下照比賣の侍女なるべし。故に風土記に天探女の此に至りしと記せるは、下照比賣の天探女を具して天降らせしものと見ざるべからず。即ち此の地は下照比賣降臨の靈地にして、高津の地名も是れより起り、下照比賣を比賣許曾神社と祀られしも之れが爲めなるべし。
同社縁起に依れぼ「本宮の神垣のひんがしのかたに天の磐船あり、上古は地上にありといへども、人王五十三代淳和天皇の天長三丙午年夏六月、大雨洪水して、愛来目山・大小橋山・高津岳等土砂漲落ちて、磐舟土中に沈淪し侍る、是れよりして人呼で磐船土の下に要るの故に下至土野原と云ふ」と録し、風月抄には「人王八十三代土御門院御宇承元三己巳年四月、藤原光俊仍高日賣神靈告、磐船四隅開戸、名日味原縣、此時神石之四面以石墻構之、于時呼人日下至土野原」と載せ、朝野群載には「摂津国東方於味原有石船、往年下照姫神垂跡云々、其磐船四十尋餘亘二十尋、石中有凹凸、置寳珠一顆、名號如意珠、其船向東北、待智者揺動、亦其上有叢祠祭祀石靈」と記せり。
摂津名所図會に掲げられたる村老味原氏の談に依れば、元禄年中より此の地を開墾して田園となし、耕作の用水にとて井を掘る、其の時七尋斗りも穿ちしに、平面の大石○穿銚○に當る、又其ほとりこゝかしこを掘りぬれども、何地もみな同石にてみがき立たる石あり、彼井を掘りし者忽病を受けて悩亂す
磐船といふ事もいまだしらざりし時なれば、人々驚き恐怖して井を掘る事をそれより止めしとなん。

 萬 葉  久方のあまの探女かいはふねのはてし高津はあせにけるかも  角麻呂
 清 雅  磐舟のいしの大船に棹さして行末なかく漕渡るらん      同



 
交野の天の磐船伝説  (大阪府交野市私市)

生駒山地の東側、四條畷市田原一帯の水を集めて交野の地域を流れ下る天の川の途中、文字どおり磐船峡谷に天の磐船の伝承地があります。交野の私市から渓谷に沿って磐船街道
(国道168号)を進み、田畑と丘が広がる田原地域の入口附近に鎮座する磐船は、天の磐船と呼ばれる20mにも達する巨大な石を御神体としています。
神体石の周辺近くには多数の巨岩のほか舟形の石や、石の側面に鎌倉時代ごろに彫られたといわれる大日如来・観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩の四体の仏像が彫られた石もあります。
この他、両側の山の崖面にも多数の巨岩が点在し信仰の対象となっています。
天の磐船は、『先代旧事本紀』に「饒速日尊、天神御祖の詔をうけて、天磐船に乗り、河内国河上哮峯に天降り坐す。さらに大倭国鳥見白庭山に遷り坐す。いはゆる天磐船に乗り大虚空
(おおぞら)を翔行きて、この郷を巡りみて、天降り坐す、すなはち虚空見日本国(そらみつやまと)といふは是なり」と登場します。

 十種の神寶を授けられ、天空を飛ぶ天の磐船で河内国
 の河上にある哮峯に天降られたと書かれています。
 祭神の饒速日尊
(にぎはやひのみこと)は、天照国照彦天火
 明櫛玉饒速日尊、またの名を天火明命
(あめのほあきのみ
 こと)
といい、神武天皇の東征・大和平定に先立ち、生
 駒山系の哮ヶ峯に天降り、鳥見の白庭山へ移ると共に在地豪族の長髄彦の妹の三炊屋姫を妃とし、やがて河内・大和を中心に勢力を伸ばした物部氏の祖神にあたります。
天の川沿いの交野山ろく一帯は、一族の交野物部の本貫地であると共に、生駒山東麓の田原周辺にかけた天の川流域に沿って、住吉大神を祀る住吉神社が多数鎮座します。
また磐船神社の御神体である天の磐船石の表面には「住吉大明神」の神名を彫り、祭神は表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神と神功皇后を祀っているといいます。
天降ったという哮ヶ峰については、神社の西北、府民の森星田園地のロッククライミングウォールの背後の岩山が、一般的には哮峰といわれています。
『住吉大社神代記』の「膽駒神南備山本記」には、垂仁天皇と仲哀天皇が住吉大社へ神領として寄進した生駒山の北限の地として饒速日山の名が登場することなどから、交野の磐船峡谷に残る謎の磐船伝説は、物部氏の始祖神話だけでなく、日本の建国神話あるいは住吉大神の世界・日神崇拝に大きくつながっていくようです。
なお、東大阪市日下の生駒山北嶺にも哮ヶ峰・饒速日山があり、山ろくの石切には、同じく饒速日命を祀る石切剱箭神社があります。

 (資料) 
 磐船・岩船神社 
『大阪府全誌』より
  大字私市
本地は古来交野郡に属し、私市村と称す。字地に川原西の町・川原東の町・小路・畑西の町・畑東の町・馬場・坂口・院殿といへるあり。
村名の私市は私部市の略にして、大字私部と同じく何れの時にか后邑たりし遺称ならんか。東南に山脈展列し、青嶂峩々として其の一峡を爲せる所に、星田村より天の川落ち来通じ、緩急 回嵒石悉く詭譎変幻を極め、一大巌之に跨れり。
謂ゆる磐船是にして高さ六丈・長さ五丈、其の形船の如し。即ち岩船神社の神体にして、表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯姫命を祀る。
境内は壹百貳拾五坪、無格社にして祭日六月三十日なり。傳え云ふ、饒速日尊の天津御祖の詔を稟けて、十種の神寶を授かり、哮峯に降り給ひし時に用ひられし天磐船なりと。
背面に加藤肥後守の五字を勒せり、其の縁由は詳ならざれども、大坂築城のとき、清正は此の石を輸送せんとして名字を勒せしも、動かざりければ、終に其の儘になりしとの傳説あり。

 (資料)
 磐船の記事 
『南遊紀行』より
「岩舟とは大磐方十間も有へし、長くして舟の形ににたり、谷によこたわれり、其外家のごとく橋のごとく或は横はり或は側たてる大石多し、岩船石の南の面をけつり、住吉明神の字を彫りつけて麁布の戸帳を掛たり、其南の大石には不動を刻付たり、六月晦日に爰に参詣の人多しと云ふ、磐船石の下を天川流れ通る奇境也、凡大石は何地にも多けれ共、かくのごとく大石の多く一所にあつまれる處をいまだ見ず」



 
葛城山ろく平石の磐船伝説 (大阪府南河内郡河南町)

当麻へ通じる竹内峠がとおり、推古天皇陵・風の神を祀る科長神社などがある南河内郡太子町の南方、河南町平石
(旧河内国石川郡)の山間部にも哮ヶ峰と磐船の伝承地、磐船神社があります。
平石は、修験道の祖といわれる役行者の修行の地、葛城山嶺の北にそびえ久米の岩橋伝説で知られる岩橋山の西ろくにあたります。

    

神社は、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊のほか、天照大神・高皇彦靈神・住吉三神・息長足姫・應神天皇・可美眞手命・御炊屋姫命・大山祇命を祀っています。
神社の東側の尾根突端は、山ろくから見れば三角形の神奈備山で、哮ヶ峰と伝えられていて、交野の磐船神社と同じく旧事紀の「饒速日尊天神御祖の詔をうけて、天磐船に乗り、河内国河上哮峯に天降り坐す」の哮ヶ峰といいます。
『河内名所図絵』には、この地を神下山といい、神籬を樛祠
(とがのやしろと名付けると記されています。
乗っていた天磐船だと伝える石が 山中〜社殿の周辺に多数ありますが、写真上方に見える巨石の一つは船形に近く、長さは約13mほどあります。

 (資料) 
 
磐船神祠 
『河内名所図絵』より 
葛城山の山中にあり。平石、持尾両村の生土神とす。例祭、六月廿三日、九月七日。〔旧事紀〕日、饒速日尊、天神御祖の詔を禀て、十種の神宝を授り、天磐舩に乗て、河内国河上哮峯に天降り、即、大和国鳥見白庭山に遷座し給ふと云云。
因之、此地を神下山といふ。神籬を樛祠
(とがのやしろ)と号く。左右に摂社あり。八幡宮、若宮、山神、滝宮、これは、当山の南、横尾滝の霊神をこゝに祭る。大和の鳥見丘は、三輪の南、外山村の東上み方にあり。〔大和名所図会〕に委く出せり。
磐 船
社頭の所々に見へたり。舩の形に似て艫○*
(舟+益)ありて凹なり。土人日、此山中に四十八箇所ありとなん。
浪 石
社頭の西壱町計にあり。石頂に浪の吹よせたる形あり。故に名とす。

 (資料) 
 磐船神社 
『大阪府全誌』より
磐船神社は山中にあり、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊及び天照大神・高皇彦靈神・表筒男命・中簡男命・底筒男命・息長足姫・應神天皇・可美眞手命・御炊屋姫命・大山祇命を祀れり。
其の地を哮ケ峰といふ、其の哮ケ峯といへるは、舊事紀天孫本紀に「天祖以天璽瑞寶十種、授饒速日尊、則此尊稟天神御祖詔、乗天磐船而天降、坐於河内國河上哮峰」と見ゆる哮ケ峰なりと傳へ、其の乗り給ひし天磐船なりといへるは社辺の所々にあり。石形船の如く艫○を備へて、其の大なるものは長さ約七間にも及べり。
又其の西方一町許にして浪石といへるありて、石頂に浪の吹きよせたる形あり、石は何れも其の形に依りて名づけられしものならん。
哮ケ峰といへるは、北河内郡星田村大字星田にもあれば、その何れが饒速日尊の天降りありし哮ケ峰なるかは明ならざれども、社は式内社の名を逸したるものならんかとの説もありて、其の勧請せられしは久しき以前にありしものなるかの如くに想はる。
然れども久しく高貴寺の鎮守となり来たりて、社記の傳はらざるに至りしは惜むべし。
明治維新後の神仏分離に依りて高貴寺と分れ、同五年村社に列し、同四十四年五月二十九日神饌幣帛料供進社に指定せらる。境内は壹千六百壹坪を有し、本殿・弊殿・拝殿・寶庫を存し、未社数座あり。氏地は本地及び河内村大字持尾にして、例祭は十月十七日なり。



いずれにしても、難波・河内一帯と東側に連なる生駒・二上・葛城山系周辺にかけた広大な地域は、古くは物部氏の勢力地域、のちには住吉大社の神領地であり、各地には百済・新羅からの渡来氏族であふれていた。磐船などの伝承がどのように各地に残されてきたのか、その謎解きは大きな古代史のロマンといえるでしょう。

 

               いこまかんなびの杜