生 駒 山 宝 山 寺 と 般 若 窟



   


  
宝 山 寺

 
生駒山の北嶺東山腹から噴出した三角錐状の溶岩ドームを巨大磐座として、役行者が開創したと伝える「生駒山宝山寺」。この山丘は「般若窟」とよばれます。
 寺史によると、役行者が葛城金剛の山々で修行のおり、生駒山の般若窟に立寄り、修行を行ったとの故事から、寺の開基は役行者といわれます。
 この時、良民を苦しめていた前鬼・後鬼を捕らえ「般若窟」に閉じ込めて改心させて付き従えさせたといわれます。
 また、その後、弘法大師もこの地で修行されたといわれます。
 般若窟の頂上には13世紀初頭に建立された五輪塔が残っているといわれ、弘安5
(1292)の十三重石塔も遺存しているようです。
 江戸時代に中興開山湛海律師が入山し復興するまでは、岩屋山聖無動寺といわれていたようです。
 般若窟の不思議な山容などから、膽駒神南備山の北限、饒速日山ではなかったかとの説もありますが、背後の生駒山北嶺には巨石遺構のある「饒速日山」伝承地があります。
 また、生駒山上には「生駒山経塚」があります。




       
            
                   宝山寺の本堂と背後の般若窟




『般若窟 生駒山宝山寺縁起』
 文化10年(1813) [平成12年4月 宝山寺発行]より抜粋

宝山寺開山湛海律師画像記  (略)

般若窟記第一 (略)
 〃  第二 (略)
 〃  第三 (略)
 〃  第四 
又次に山の由来に二説あり、爰に神書博学の人有て、摂州前の多田院尊光律師に語りけるは、般若窟の隠士宝山師は、彼山の由来を知りたまひて、宝山とは号するやと云、尊光其ゆへをしらずと答、彼人のいはく、昔伊弉諾、伊奘冉尊、天の逆鉾を指おろし、此界をかきさぐりたまひし其滴り、大日本の国一つの宝山と成り、此処日本最初の霊地なり、先二柱の尊、降臨ましまして、又天の忍穂耳尊、降臨の地なりと云々、是によつて天照皇大神をはしめ奉り、地神最初の神達皆此山に降臨ましますと云々、これらのこと古記の中に見えたり、師、其事をしらずして宝山と付たまふは不思議のこと也、山の名は皆もつて神道者のしる所なりと、信敬斜ならざるのよしを語りけることを、尊光律師書付越されけるなり、又其書付の中に件の窟は不動明王の住所、則石山を不動の実体と習ふこと、神道の秘伝たるよし、是ありしなり、
是を思ふに、役小角、弥勒の浄土と記し置れけること尤符合せり、不動明王は大日弥勒の教令輪身たり、予、又不動明王の侍者なれは、是また所住に堪へたり、又河符(府)の沙門、李臾橘か撰する古実記云、
地皇氏
(つちのすへらき)第三主尊、天津彦々火瓊々杵尊 廼(すなはち)明皇地蔵之応化也 尊受勅於祖神天照皇 于時青竜甲午初隆化于(みことうけたまふみことのりをおほんかみあまてるすへらきにときにほしのやとりきのへむまはしめてあまくたりよをおさめたまふ) 日向国襲之高千穂峰未幾尊又駕天磐船於碧漢令天鈿女執纜焉翺翔山戸国生馬般若嶽上垂跡於此地即磐船大明神是也等文 此尊日域はしめて地居たり、国を饗ること三十一万八千五百四十二年といへり、尊乃勅云、却後百八十万年有 大上根機者蹐此嶽頂駆使鬼神当嶽艮背安惜朕之本身云爾厥勅史雕之石有嶽腹之般若窟之中矣 而後人皇氏第四十二代文武天皇御宇役優婆塞茅原小角修練生馬駆使二鬼一刀三礼刻地蔵之像 其尊形者結跏趺座左願掌宝珠右忍握金錫 即是瓊々杵尊之本身也 此旧跡至于今山下有之山崎之地蔵堂是也 小角又記讖文(おきふみ)云 吾後八百余霜有大苦行之者而出於此霊地天下霊区足跡皆遍木食艸衣岩栖谷飲到所霊場供十万枚云爾
   (略)
又当山の北にあたりて滝あり、高き事十丈余、古より観音を安置せる跡、今幽に残れり、予、此地を見るに勝地にして、年来希望する所なり、是によつて谷田の庄の里正、中村氏に事の由を告けしらせ、彼れ幹縁して、其山をもとめしむ、元禄十六年
(1703)癸未四月十八日、はしめて此山に分入、件の滝のうへを見るに、又類ひなき勝地也、適(たまたま)此地をひらく所に、大石に不思議の足印あり、はしめて見て、所謂いかんともしらさる処に、明王開示したまふ、これは天津彦々火瓊々杵尊の足跡なりと、件の由来をおもふに、尊此般若か嶽にはしめて降臨ましましし跡を、此地に垂たまふ証拠也、則左の御足の印紋、是をおもふに、右は仏界、左は衆生界なる事、密法の定なり、是則、日域の衆生を恵みたまはんとの御誓ひの験なり、寔に日本無双の霊地なり、件の磐船是より北にあたつて、天河の水上に船を留めたまひ、則大石と成て現存せり、天鈿女搦絡纜之石(あまのうずめはからくりまとふのともづなを) 謂之纜絡之石(つるくくりのいし)矣 尊解帆縄植帆檣既成参天松樹 謂之帆解松 矣文 世に岩船谷といふは是なり、
先年此書を見て、禁足たりといへとも、徒弟二三子を具して、彼地に往て是を見る、以前に我を恐怖せしめし其鬼王は、岩船大明神成る事を忽然と心に徹して、これを覚せり、寔に其膚、此石なりと感心斜ならざりき、此神我を恐怖せしこと、障碍なすにはあらす、予を伺ひ見て守護せむためのはかりことなり、と肝に銘して殊勝なり、又件の滝に、むかし観音を安んずといふ地は、狭小にして、伽藍の地に不足なり、是によつて、其地を開き築て、十一面観音の尊容を安置せんと欲して、先、等身に一刀三礼如法に自作す、堂建立の事は、唯時節到来を期するものなり、昔をおもひ今を見るに、伊弉諾の尊は十一面観音の霊応なれは、此地に相叶者か、彼滝に不動尊の三尊、石に彫付て是あり、是を思ふに、滝の本主不動明王なれは、予悉地成就の期には、此処に不動明王の淨刹をかまへ、予此地に隠籠せんと求願す、件の地に旧号あり、大乗滝寺といふ、予おもはく、其はしめ、岩船大明神、此流水に御足を灑ぎたまふの霊地に因んて、乗を清とあらためて、大清滝寺と号すべし、是を本坊の総名として、件の観音安置の地を、補陀落院と号し、明王所安の地を常楽院と定むへし、又こゝに近頃感通することあり、此滝の下に往古より竜王といふ小社あり、所謂いかんともしらさる所に、此社清滝権現なることを知る、是ひとへに予か年来念願する所の感応か、密教擁護の神なるか故に、予か居住の処には、かねて勧請せむことを思ひき、是、予か信力に相叶事、多幸なり、悉地成就の後は、此地を荘厳して、恭敬せんと念願す、又上に演るところの大清滝寺に、自然と符合すること、これ又不思議なり、
抑 此青竜権現は、大唐青竜寺の鎮守なり、此ゆへに、我祖師弘法大師入唐の時、密教擁護のために御契約有て、大師高雄に居住の時、彼神高雄の川へ飛来りたまふゆへに、三水を加へて清滝と書事、此因縁なり、夫より彼ながれを清滝川と申也、汝等前に願ふ次第は、大体かくのことし、且又、予か本願の不動明王感応好相等のことは、密教の制禁たるに依て一向沙汰に及はす、其余の誓願する行業等は、広大なり、小器のまへに聞て其益なし、委く演るに暇あらす、畢竟悉地成就の日には上件の事は、猶如昨夢而已

  右、師の口説にまかせ、後世の為に謹て記録する者也

  文化十年癸酉春二月
                 宝 山 寺 蔵 版
                

      






      (参考) 碑文が刻まれた天津彦々火瓊々杵尊の足印石と清滝


       
           宝山寺の北東、大乗滝寺の背後の谷にある神足印石と清滝
      
                       足 印



 2021.1.8 追加変更


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