生 駒 山 の 鬼 と 役 行 者 伝 承



 

住吉大社の聖浄なる神南備山であった生駒山には、7世紀の中ごろ、山中に鬼が住み良民を苦しめていた。これを役小角
(えんのおづぬ)が捕らえて改心させ使役したという。
吉野・大峰・熊野をはじめ全国に展開され修験道の開祖とされる役行者の伝承は、葛城とこの生駒の山に始まったのでしょう。
ここでは「生駒山の鬼と役行者伝承」について、一足早くご紹介することにします。

 拙著『よもやま昔ばなし17 生駒山の鬼と役行者伝承』東大阪消防75号 平成17年8月より



 生駒山の鬼と役行者伝承    

生駒山の峠の一つ、暗峠の北西にある髪切(東豊浦町)という山里には、時鳥の名勝地として古くからよく知られる慈光寺という寺があります。
寺は、今をさかのぼること1300年前の天智天皇のころ、役小角(役行者)が開いたと伝える修験道の山寺として栄華盛衰の歴史をたどってきました。
寺の山号は神切山のちに髪切山といい、正応5年(1292)に改鋳された鎌倉時代の銅鐘や天文18年(1549)の板絵千手観音図など優れた指定文化財が多く残されています。
銅鐘の銘文冒頭には「葛城北峯慈光寺字神切山鐘也」と刻まれ、鎌倉時代の『諸山縁起』に葛城北峯(生駒山系)の宿として記される17ケ所の宿の中の「髪切」にあたります。
慈光寺では、毎年この寺の歴史と生駒山の歴史を物語る大切な儀式がとり行なわれます。
例年3月18日には戸開式、9月18日には戸閉式といって、境内東側にあり役行者を祀る開山堂、つまり髪切山を開け閉めする儀式です。(*現在は両月第3土曜日に変わっています)
式は、まず開山堂の中で行なわれる内護摩の儀、庫裡内で行なわれる鍵渡しの儀、続く柴灯護摩の儀、の三部が主要なものですが、この中で鍵渡し(正面・秘密・はかせの3つの鍵)の儀式から続いて、講員が人馬を組み石段を威勢よく駆け上って開山堂内に練りこみ、3つの鍵で開(閉)する一連の儀式に、まさかりを持った赤鬼と錫杖を持った青鬼が付き従います。

     
         慈光寺の開山堂           開山堂横の護摩祭場
   
 
        鍵渡しの儀(庫裡内)     鍵渡しの儀が済めば一気に開山堂へ

寺伝によると、役小角が36歳の時に葛城山で修業中、生駒山中に2人の鬼賊が住んでいて、付近の村落に出没しては人畜に危害を加えていたため、良民を救うためにはこの鬼賊を捕えて訓戒しようと思われ、不動明王に呪縛の祈誓を行ったところ難なく結願の日にこの両賊を捕えることができ、このことからその地の山を鬼取山(又は鬼取獄)と呼ぶようになったといいます。

    
      慈光寺の鬼面            慈光寺の柴灯護摩の儀

小角は両鬼の改心の誓いとして髪を切って名を義学・義賢と名付け、以後小角に付き従う前鬼後鬼として使役したという。髪切という地名の由来はここにあります。
慈光寺の戸開式・戸閉式に登場する赤鬼・青鬼は、まさしく寺に伝わる役行者の開創伝承にもとづいていることが分かります。なお、寺には役行者のものと伝える笈摺が寺宝として残されています。

ところで、生駒にいた鬼が役行者に捕らえられたという鬼取山は、暗峠を東に少し下った生駒谷側の北方山腹に鬼取(現在は生駒市鬼取町)という地にあります。
鬼取の地域は生駒山主峯(642m)の山頂から生駒谷の山腹にかけた地域で、役行者が義覚・義賢の二鬼を捕らえた所、あるいは役行者の開創あるいは行基の開基と伝える鬼取山鶴林寺・旧鶴林寺跡・同奥院の龍岳院などの寺院があります。
見晴しのいい山腹に位置する鬼取集落の鶴林寺は、山号は鬼取山といい、薬師十二神将を祀る小さなお堂と建物の基壇跡らしいものがひっそりと残るだけですが、この寺は近世に生駒山頂の東斜面に深く刻まれた谷奥から移されて来たもので、中世以前は鬱蒼とした樹木で覆われて巨岩が露出し、いかにも鬼の住処あるい役行者の伝承が誕生しそうな「薬師の滝」あるいは「八大竜王の滝」附近の霊場附近が、当初の鶴林寺があったところ(旧鶴林寺跡)といわれ、もとの山号は、薬師山と呼ばれていました。
鶴林寺へは、山ろくの有里に生駒・平群谷での社会事業の拠点施設として慶雲4年(707)に生馬仙房(生馬山竹林寺)を建立した僧行基がおとずれ、同じく薬師如来の託宣をうけたといい、行基の没後、平安時代の初期になって寺を上流に移し、寺号も鬼取山鶴林寺と改称したとも伝えています。
僧行基の活動と極めてかかわりの深い寺でもあったようです。

    
      現在の鶴林寺(鬼取町)    生駒山頂近くの谷間にある旧鶴林寺跡
   
 
     旧鶴林寺=薬師の滝の境内    南側にある巨岩と八大竜王の滝行場

なお、背後の生駒山頂には、大和八大龍王総本山(真言宗)の生駒鬼取山龍岳院がありますが、ここは鶴林寺の奥の院で明治時代まで「上山
(じょうざん)」呼ばれていたようです。

さらに、生駒山の東山腹には、他にも役行者・鬼の伝承地が見られます。生駒駅の西方、宝山寺は背後山腹から三角錐状に突き出た火成岩の山塊を、般若窟といい、古くは岩屋山聖無動寺と呼ばれ、江戸時代に湛海律師の中興以降に大いに発展しました。
生駒山宝山寺(生駒聖天)では、役行者が葛城・金剛の山々で苦行修練を積んでいた18~20才のころに、生駒山の般若窟に立寄り、捕らえた前鬼・後鬼を般若窟に閉じ込めて改心させた場所だといい、寺の開基は役行者、般若窟は、役行者が般若経を納めたことに由来するといいます。

    
        
              突き出た宝山寺般若窟の山塊

なお、鬼取の鶴林寺との間にある小倉山教弘寺(小倉町)も、役行者が如意輪観音像を安置して霊地として開いたと伝えていて、境内には二鬼を従えた役行者像を半肉彫りした天正6年の石仏があり、万葉歌碑のある暗越奈良街道筋の西畑町にも巨岩上に三角形の自然石を舟形に彫り込んで役行者と前鬼・後鬼像を薄肉彫りし、側面に江戸時代の文化の年号を刻んでいます。
このほか生駒谷にそって役行者の信仰を物語る石仏が数多く残されています。

    
     教弘寺の役行者石仏(生駒市小倉)      西畑の役行者石仏

さて、南方の鳴川峠を下った平群谷に面する山腹(平群町鳴川)にも役行者の伝承を伝える霊場千光寺があります。

千光寺の寺伝によると、役行者が生駒明神に参詣した際、ご神託によって鳴川の里に小さな草堂を建てて漆の木で千手観音を刻み、日夜荒行に励んだという。
行者の身を案じた母(白専女-しらとうめ)は、鳴川の里に来て行者と一緒に修行していたある日、行者が遠見ケ嶽に登り南方を見ると山々の中に不思議な光を放つ山を見て霊威を感じ、鳴川に母を残し、二鬼を従えて二上・葛城・金剛山~友ケ島~熊野~大峰山系の山上ケ嶽に登り、ここを修行根本道場と定めたという。
また、母は鳴川に残り修行を続けたという。
天武天皇12年(683)、勅願により千光寺と名付けられ、後世、鳴川千光寺を元山上と呼び、女人山上と称して女人の修行道場として栄えました。 

    
     千光寺のある鳴川の谷(北から)      鳴川山千光寺(元山上)
    
 
       千光寺行者堂-奥にある        行者堂横の護摩祭場

千光寺の背後の山には、滝の行場など各所に巨岩・岩盤が露出していて、修験の行場あるいは山岳寺院がつくられるに相応しい霊場といえます。
寺では4月10日に戸開式、10月8日には戸閉式が挙行されます。

生駒山の大阪側、東大阪市の山腹~山ろくにも役行者の伝承をもつ寺院があります。石切から山越えで宝山寺へ通じる辻子谷道を登りつめた谷奥の鷲尾山興法寺は、真言宗で古くは鷲仙寺祇園院といい、本尊の三面十一面千手観世音菩薩像は、優れた藤原時代初期の作で、沿革の不明な点が多いものの、寺は役行者の開基と伝えています。
また、山ろくの石切駅のすぐ下にある慧日山千手寺は、その昔、役小角が笠置山の千手窟で修行していた時に、薄暗い窟内にどこから飛んできたのか神炎が燃え、周囲を照らしていました。
役行者がそれに近づくと炎は窟の外へ飛出しその後を追ってみると、その炎は西南の方向連なっていて、行者はその後を追って生駒嶺を越えて石切の地へ導かれ、その地の岩の上で座していると千手観音が諸々の神と共に現れ、ここに堂を建てたと伝えています。

      
          鷲尾山興法寺         興法寺の観音像

瓢箪山の東方山中で発見された神感寺跡(上四条町)には多宝塔・金堂などの大規模な伽藍跡が残されていますが、寺の開基伝承などは謎のままです。
出土瓦や各種の史料から、寺は平安時代初期に柘榴の生える山中深い霊地に開かれた楉蔵山(じゃくぞうさん)という真言密教の山岳寺院であり、醍醐寺三宝院に所属し、神感寺の伝世遺品の銘などから東側生駒谷の生馬寺・竹林寺などとの関係も非常に深かったことが分かります。
また、六万寺町の往生院六万寺は、行基を開基と伝えるほか、背後の巨岩が各所に露出する岩滝山から平群谷側の鳴川にかけては役行者の練行の地、とも伝えています。

    
        神感寺跡(金堂跡)         神感寺跡(南西地区の安南院跡)

生駒山に色濃く伝承を残し、葛城・吉野・熊野のほか全国各地の山岳で修行して霊場を開基し、修験道の開祖とまで言われるようになった役行者とはいったいどんな人物だったのでしょうか。また、鬼とは何者だったのだろうか。
役行者については『続日本紀』の文武天皇3年(699)5月24日の条に、葛城山に住んで呪術を身につけた、役君小角を師事した韓国連広足(物部)は、小角の術を妬み、小角が怪しい言葉で人を惑わしていると讒言したために伊豆島に流された。
世間の噂は、小角は鬼神を使役して水を汲み薪を採らせその命に服さないときは呪縛した、と記されています。
役君小角は、葛城を本拠とし葛城氏のもとで葛城の山の神を祭祀した賀茂(加茂)の一族の役氏と考えられており、小角が使役したという鬼神とは、葛城の山の神であった高鴨神や一言主神であったと言われています。
薬師寺の僧景戒が平安時代の初めに著した日本最初の仏教説話集の『日本霊異記』には、各地の霊山の修行者や伝承が記されていますが、役行者は役優婆塞という名で登場します。
孔雀王の呪法を修持し異験力を得て仙人となり天を飛んだ、鬼神を使役して大和の金峰と葛城峰の間に橋をかけさせようとしたなど、役行者の伝承は修験道の展開と共に、さらに『諸山縁起』『役行者本記』など、鎌倉~江戸時代にかけて小角にまつわる内容は大きく脚色され変容していくことになります。

生駒山に関する伝承は、16世紀末ごろと推定される『役行者本記』に現れ、役行者が39才の時(天武天皇元年)に伊駒岳で善童鬼(前鬼)と妙童鬼(後鬼)の夫婦の鬼を弟子とした。

           

42才の時には伊駒岳に伊駒寺を開いたと登場します。この寺はすでに紹介した鶴林寺と考えられています。
江戸時代の本山派『役公徴業録』(宝暦8年)には、21才(654年)の時に河内の断髪山で赤眼(夫)・黄口(妻)の二鬼が鬼一・鬼次・鬼助・鬼虎・鬼彦の5人の子供と住んでいた。
二鬼は人間の子供を捕って食物としていた、役行者はこれを止めさせるため、鬼の最愛の子鬼彦を鉢の中へ隠したので、心配し親鬼は、役行者に助けを求めたため、改悛させ呪文によって鬼の一家を人間に変え、以後前鬼・後鬼と名を変えて役行者に奉仕しこの地に髪切山慈光寺を建立したと記しています。
鎌倉時代の後期に筆写されたという『役優婆塞事』には、義覚・義賢・義真という人の弟子の名が記されていますが、慈光寺では改心した鬼の名を義学(覚の誤りか)・義賢としています。
鬼の話は、江戸時代には葛城・大峰・箕面・日光など各地に見られますが葛城の北峰といわれた生駒山の鬼の話が一般には広く知られています。

古代において葛城山や生駒山は、河内と大和の間に聳える神の山・仙境と考えられてきたようで、住吉大社の神南備山あるいは神聖な神領地でした。
役小角が使役した葛城山の鬼神、生馬山の夫婦の鬼とは、神聖な山であるべき山中に、古き支配者の時代に祀られた異神、傷ましい大事件の中から彷徨えることとなった怨霊あるいは山々に侵入し悪行を起こそうとする物怪たちなどであったのかも知れない。
生駒山中に役行者の開創と繋がる真言密教の山岳寺院が創られていった背景にはそうした神聖であるべき山々から鬼などを悪魔退散させ、浄め祓うものであったのでしょう。

  2005.6.27



       いこまかんなびの杜