磐 船 神 社 (交野) の 天 磐 船 石 と 哮 ヶ 峰



『住吉大社神代記』「膽駒神南備山本記」に生駒山の神南備山の四至の北を限る地名として登場する饒速日山は、交野を北流する天の川の磐船峡谷の奥、磐船神社(饒速日命)の北、いわふね自然の森に聳える「哮ケ峯」だとも言われています。
哮ケ峯と呼ばれる山は、南河内の葛城山ろくの河南町平石にも、同じく饒速日命が天下ったとされる哮ケ峯があり、山ろくに磐船神社が祀られています。
このほか生駒山の北嶺斜面に位置し、直越(ただごえ)道がとおっていた草香山にも、哮ケ峯や饒速日山と呼ばれていた所があり、巨石遺構が存在しています。
神南備山の北限の地として登場するため、交野の磐船か生駒山北嶺のいずれかということになりますが、はたしていずれの峯なのだろうか。

      
              饒速日山だとされる哮ケ峰(たけるがみね)
             採石工事でこのような岩肌となったようです
      
       磐船神社・田原方面から(中央の低い所)     磐船神社の社前・旧道
       
                磐船神社の御神体石=天磐船石と呼ばれる


 磐 船 神 社  (交野市私市) 『磐船神社略記』より

当社(磐船神社)祭神は、天照皇大神の御孫神天照国照彦天火明奇玉饒速日命と申上げ、日本書紀古事記等古典によりますと、「天孫降臨に先立ち日本の国の中心である大和国に入らんとして三十二人の伴緒を率い十種瑞神宝を捧持して天翔り空翔り天磐船に乗り河内国河上哮ヶ峰に天降りました」と述べてあります。
太古淀川は枚方附近まで入江となっており大和に入るには哮ケ峰の麓を流れる天の川を遡りつつ、大和に至るのが至便であったと考えられます。
祭神は当社に降臨され、後は先ず十種瑞神宝を以て病み患う者を助け給い、和を以て大和の国の人々を導き給ったのであります。
当社は祭神御降臨の地として、その天磐船の巨石を御神体としてお祀り申し上げております。
その後、時代を経て神武東征の節、祭神の子孫は時の鳥見の尊長長すね彦を誅し神武天皇大和創業の基幹となり、物部の姓を賜って代々の朝廷に仕え、祭神は物部氏の遠祖とあがめられたのであります。
その教義(十種神宝)は永く代々の朝廷と共に栄えましたが欽明天皇(皇紀1,100年)の御代、物部蘇我の争いから遂に物部氏の滅亡をみ仏教の隆盛を來したのであります。
以来当社は山岳仏教の影響を受け平安時代には生駒山岳修験道の行場として栄え、都の貴族たちが歌所として交野の地を訪れるようになると、歌の神様である住吉大神が当社にも祀られるようになり、何時の時代からか住吉大神が主祭神とされるようになりまし
た。
現在、天の川流域に住吉神社が多く鎮座しておりますのは、もともとこの地方を支配していた物部氏の氏神として、当社の御分霊を祀っておりましたところ、当社が住吉大神に代わったのに倣って、各社住吉大神をお祀りしたためと考えられております。
その後明治維新を迎え、神道思想の隆盛とともに当社でも歴史的に正当な御祭神に復古しようという気運が高まり、饒速日命が主祭神に復座なされました。
十種瑞神宝は神武天皇即位に際し朝廷に奉献後、石上神宮に伝えられました。その後、神道家必修の祝詞「十種祓詞」の根本として神道各派はもとより近世に成立した教派神道十三派の内天理教を除きその教師の修行研鑽する処でもあります。

       
         御神体石の東裏側にある石には住吉四神を表す大日如来・観音菩薩・
         地蔵菩薩・勢至菩薩の四仏が彫られている(鎌倉時代?)


次に記紀以外の古文書を引用してみますと、『先代旧事本紀 巻五』には「天孫本紀云天照国照彦天火明奇玉饒速日尊とは天照皇大神の太子天押穂耳尊、高皇産霊尊の女栲幡千々姫を妃なし饒速日尊を誕む。二尊相画り天霊瑞宝十種を授け神詔を下し給ふ。
尊は天磐船に乗りて河内国河上哮ケ峰に天降り給ふ」、『続歌柿良材集』には 「饒速日命と申せ神天祖の詔を受けて天磐船に駕し給いて天降りて河内国河哮ケ峰にいたりこれより遷りて大和国鳥見の白庭にいましき云々今河内国に磐船明神とておはすはかの饒速日命をいはひ申すと云」、『雲根志』には「又河内国交野郡天の河に岩舟大明神といふ大社あり此処に磐船あり形船の如し六月晦日神事あり」、『明治維新の先覚者伴林光平の捕へられし時磐船山間近により詠む』には「梶おなみ乗りてのがれん世ならねば磐船山もかひなかりけり」、その他、貝原益軒の南遊紀行に磐船明神の事を伝え、古来より有名でありましたがその後、相次ぐ水害やその他種々の事情により江戸時代宝永年間に近在四村の氏子が相計り宝物を分祀することとなったので、その後当社は衰退の一途をたどったのであります。
当社より分祀せられた社は十社ありまして田原住吉神社その他であります。今でも田原住吉神社には蓮の台の神輿があり磐船宮と云銘があります。
石切神社も当社の祭神の神宝を祭祀し御祈祷で有名でありますのは当社祭神の十種瑞神宝の御神威であります。
山岳仏教の影響を受けたと先に述べましたが、当社の東面する岩面に不動明王を刻み側に「天文十四年十二月吉日観請開白大蔵坊法印清忍」と刻印があり、また境内の高一丈余幅一丈五尺余の大岩に大日如来・観音菩薩・地蔵菩薩・勢至菩薩の四仏体躰を刻み、古来より四社明神と称し住吉大神の本地仏として崇め奉られております。 
四社明神の建立年代は詳かではありませんが、伝説によると弘法大師の作と伝えられておりましたが、近年学術的には鎌倉時代の様式の石仏とされております。この四社明神には磐船和讃伝承せられ「きみおちよらい磐船の 地蔵菩薩のはすの池水はなくとも舟はしる 舟は白かね櫓はこがね 金銀帆柱おし立てて六字の妙を帆に上げて」とあるのも宣なるかなとます頷
(うなづ)けます。(後略)

     
            御神体石の下の川底には不思議な船形の石がある
               他の神社でもよく似た舟石に出会う


        
         御神体石(南から)      東側の山の斜面に続く巨石群



       いこまかんなびの杜