い こ ま か ん な び の 会 活 動 記 録 |
結成日 平成14年(2002)12月 2ヶ月に1回集まって「生駒山は神南備山」の古代ロマンを巡る探索会か勉強会をして行こうという事で始めました。が、現在は、ほとんど単独探索中。 |
● 第1回探索会 住吉大社周辺〜阿倍野まで 2003.1.27 雨 |
第1回目の探索会は、高安山ろくに鎮座する式内社恩智神社から近鉄国分駅までの社寺などを訪ねる予定でした。しかし、誰が雨○○○なのか分かりませんが、雨天予報の中、急きょ変更して住吉大社へ行く事になりました。 ひどい雨降りの中、びしょ濡れになりながら住吉公園〜高燈籠〜住吉大社を参拝・見学しました。 昼からは勇士?のみすぐ北側にある生根神社を見学し、そのまま帝塚山古墳〜阿倍野神社〜阿倍王子神社〜安倍晴明神社〜旧熊野街道筋を見学し、いつしか天王寺まで約5.5キロも歩いていました。さすがどっと疲れました。 でも、上町台地の端に海に面して鎮座していた古代の住吉大社の姿や周辺の史跡や歴史について、さらなる興味を深めました。お天気なら何とか東方の生駒山が見れたのでしょうが。 住 吉 大 社 |
● 第2回探索会 恩智神社〜鐸比古鐸比売神社を歩く 2003.3.17 晴 | ||
第1回目に予定していた式内社恩智神社と旧社地の天王の森、神宮寺であった感応院を参拝、貞観期作の十一面観音立像(国重文)を特別に拝観させていただきました。 ここは住吉大社から真東の位置、同社とは密接な関係にある重要な神社です。旧東高野街道筋に沿って山ろくの常世岐姫神社・若倭姫神社・若倭彦神社・最後に鐸比古鐸比売神社(ぬでひこぬでひめ)を見学して、近鉄堅下駅で一応解散しました。 当初は国分駅まで、家原寺や山下寺など河内六大寺跡も見学する予定でいましたが、皆それなりの年令で喋リングは元気でも、体力の方は?って感じで。この地は式内社が集中、氏神や古代寺院の密集地です。 まさに神や仏に支えられ、安住の地を得た渡来人の世界が大きく広がっていたのでしょう。 昔は西方を眺めれば、古代「磯歯津道」?のはるか彼方、上町台地上に住吉大社の森を眺めることが出来たのでしょう。 恩智の天王の森で 鐸比古鐸比売神社と裏山にそびえる神南備山の高尾山 |
● 第3回探索会 恩智〜玉祖神社まで歩く 2003.4.28 晴 | |||
前回は高安山ろくの恩智神社から南方への探索でしたので、今回は反対に恩智駅から山ろくを北へ探索しました。 式内社の天照大神高座神社(春日戸神・岩戸神社)〜行基の河内七墓の一つ垣内墓地〜教興寺〜式内佐麻多度神社、高安群集墳の見学は置いといて、とくに恩智神社とこれまた極めて関係の深い神立(こうだち)にある式内社玉祖神社や学生時代に発掘した愛宕塚古墳などを訪ねたあと、やっと山ろくを下って近鉄千塚バス停から帰途へ。 とくに玉祖神社は、山ろくの玉作りの遺跡と見られる高安遺跡の東方山ろくに鎮座していますが、同社の縁起によれば、和銅3年(710)に周防の国から勧請された際、一旦住吉浦に着き、住吉大神に鎮座の場所を乞い望んだ所、大神は東方山ろくに鎮座する恩智神の領地が広大であり、その高安地域七郷の内、六郷をも分与えられて鎮座したといいます。 玉祖神・恩智神・住吉大神との密接で複雑な関係が浮上してきます。 天照大神高座神社がある山麓と谷間の神社(左2つ) 玉祖神社が鎮座する高安の神立山ろく・住吉神社もある(右2つ) |
● 第4回探索会 交野の河内磐船〜磐船神社周辺を歩く 2003.6.23 曇 | ||
「膽駒神南備山」の四至の内、北を限る所として登場する「饒速日山」の場所はここだとされる生駒山地の北端、淀川に合流する天の川の上流に位置し大和に通じる重要なルート磐船峡谷にある磐船神社と北西にそびえ「哮ヶ峰」と伝える岩山などの見学となりました。 馬鹿なことを言いますが、磐船神社のご神体の巨石など累々と谷間に重なる巨石群は、まさか人工的なものではないか?、「そんなことある訳ないでしょー?。」 考古学が得意な私ですが、ロマンが先走ってしまいます。 学研都市線四條畷駅に集合し河内磐船駅から天野川ぞいの道を歩き、帰りは田原台から奈良交通バスで生駒駅へ。交野〜磐船〜田原〜登美〜矢田にかけては、物部氏の重要拠点。ますます謎は深まって行きます。「難しい中、まだ物部氏も勉強して行くのー?。」 残念ながら私は兄の葬儀で急きょ欠席でした。 |
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● 第5回勉強会 2003.9.13 |
各自「訓解住吉大社神代記」を持寄り、原田の整理した資料にもとづいて、住吉大社はもちろん住吉大神を祀る九社のほか、関係の深い部類神や子神に関する所在・現社名などの勉強を行いました。 初めての室内勉強でもあり終わってからの飲会では「福岡・下関・岡山・・あちこち見に行きたい」などなど大いに盛上がる。 |
● 番外個人探索会 生駒山北嶺周辺を探索 2003.10.? 晴 | ||
生駒山主峰から北へ二段に低くなった所、つまり現在の信貴生駒スカイラインと、かっては西側山ろくの日下方面から通じていたとみられる日下直越道が交わるポイント、通称「灯籠ゲート」のやや南方、宝山寺への分岐路にある料金所の少し南側に巨石があるけど、「ただの自然石か、はたまた巨石遺構なのか」と以前から会員から聞いていた謎の巨石を探し調査する。 結果として、生駒山北嶺にあるこの巨石群は、あまり例のない石積方法により積まれた人工の石造物であることが分かりました。ここは、さらに古い時期の直越の山越えポイントであったようです。 この日の頑張りか?神の祟りか、漆にかぶれ、えらい災難。いこまかんなび写真帳をご覧下さい。 |
● 第6回探索会 矢田丘陵〜物部伝承地を歩く 2003.10.27 晴 | ||
生駒山の周りを見渡しても、どこも物部氏の歴史と密接な場所ばかり。生駒山の巨石と物部の歴史の関係は如何に。 てなことで、今回は生駒山と大和平野の間に同じく南北に連なる矢田丘陵と東山ろくの史跡を探索することになりました。 近鉄生駒線南生駒駅〜旧暗越奈良街道筋〜榁の木峠〜矢田丘陵を南下、矢田寺に近い所にあると聞いていた「矢田の大石」を前に、その巨大さと谷底へ転がって行っても当然と思える程に謎めいた石の人工的な有り様にしばし感動。巨石をバックに参加者の記念撮影。 矢田寺から東明寺までの登りに堪えたか、もう少しの「一の矢塚」まで行く元気でずに矢田坐久志玉比古神社から直にバス停へ。 |
● 第7回遠征探索会 吉備の神社・鬼ノ城・鬼の差上石を探索 2003.11.24 快晴 | ||
前々から行こうと考えていた古代吉備の史跡をやっと探索に遠征。 35年ぶりの吉備国訪問でした。 初日は、吉備津彦神社〜吉備津神社〜背後の中山にある吉備津彦の御陵〜造山古墳〜吉備国分寺などをゆっくり見学。 翌日は、朝から弁当を仕入れ、吉備高原の最南端に築かれた古代山城の一つで朝鮮式山城といわれる「鬼ノ城跡」をまず見学。全周2.8kmにわたる列石上に高い版築土塁や堅固な石垣を築き、四方には城門や水門などが設けられた壮大な城跡の姿が発掘調査で現れています。現在、西門と周辺の復元工事が進行中でした。 この後、鬼ノ城から北へ3km谷を一つ隔てた山上にある皇の墓〜尾根筋にある古代山岳寺院の名残りを止める岩屋寺と、温羅伝承に登場する鬼が、巨大な石を差し上げて高さ15mもある岩窟を造り、ここに住処したと伝えられる巨大な「鬼の差し上げ岩=鬼の岩屋」のほか、尾根筋に続く鯉岩・八畳岩など巨石群を探索しました。 吉備津神社 吉備国分寺 鬼 ノ 城 |
● 第8回探索会 住吉大社関連の神社を訪ねる 2004.1.26 晴 | ||
第8回例会は、暖かい1日に恵まれて『住吉大社神代記』に住吉大社の子神(末社)と記され、住吉から河内へ真東に通じる古代の道「磯歯津道」沿いにあたる長居の式内社神須牟地神社見学のあと、西方の阿倍野筋にある同じく子神の止櫛侶伎比売命神(止々呂支比売神社)〜大和川を越えて堺の方違神社〜同じく子神の開速口姫神社(開口神社に比定)まで、がんばって歩きました。まぁーみなさん、よく頑張りました。 夜は難波で新年会。元気回復!!。 止々呂支比売神社 方違神社 開口神社 |
● 第9回探索会 膽駒神南備山の南限に近い龍田道を探る 2004.2.23 曇 | ||
寒い1日、『膽駒神南備山本記』に、神南備山の南限として記される地名の一つ「山門川=大和川」に沿って河内側の柏原市山麓と大和の平群谷の龍田を結ぶ山越えの古道といわれる「龍田道」に沿って、堅下〜(雁多尾畑[かりんどおばた])〜青谷〜亀の瀬〜峠〜龍田大社まで一気に歩きました。 「ちょっとは休憩して下さいよ!!」って声が。 古道の南方〜大和川にかけた山の斜面には、二千基に近い横穴式石室や横口式石郭などをもつ古墳時代後期〜終末期古墳が群集するほか、川の南側山丘上には船氏王後墓誌や特異な立石を配する竪穴式石室で知られる前期古墳の松岳山古墳群などがあり、まさしく『本記』に「南限 山門川・白木坂・恵比須墓」と記される地域であったことが実感させられました。帰りは生駒でおつかれ乾杯!!。 |
● 第10回探索会 宝山寺〜生駒山北嶺の巨石〜推定日下直越道を探る 2004.5.24 | ||
3月に計画しましたが雨、4月にと思ったものの年度始めで何かと気ぜわしくて・・。今回は、最高の天気に恵まれ、生駒駅から出発。生駒山腹から突出た巨大な磐座=般若窟のある聖地を役行者が開いたという生駒山宝山寺(生駒聖天)を見学、この後、まがりくねったハイキング道(古道)をたどり、途中では何度となく巨岩の露頭個所を確認しながら、生駒山北嶺にある生駒市清掃センター〜巨石遺構(饒速日山)〜灯籠ゲート〜生駒山麓公園へ。 昼食後、ゆっくりする予定が、北西方「動々池」の北にある採石場跡、峠地蔵(室町末期か)を見て、再び灯籠ゲートから日下直越道を下って五瀬命の負傷した地という厄山の碑〜「神武天皇聖跡孔舎衛坂顕彰碑」〜山麓の日下へ。 午後は「いい湯だなー」のところハードな帰路とあいなりました。 宝山寺般若窟の山丘 生駒山北嶺の巨石遺構 直越道沿いの厄山の碑 |
● 第11回探索会 葛城西麓の磐船神社ほかを探索 2004.6.28 曇 | ||
今回は、マイカーを使って『住吉大社神代記』の神領の中で最初に「二上・華林」として登場する広大な葛城山地の西ろく、河南町平石の真言宗高貴寺の背後にそびえ、饒速日命が天下ったと伝える神奈備形の神体山「哮ケ峯」と磐船神社を探索しました。 午後は東方に聳える岩橋山には、役行者が葛城の峰から金御嶽へ通うために架けようとして完成しなかったと言われる石橋らしい石造遺物を見学しょうと岩橋峠を目指しましたが、途中で道を間違えて道無き道へと入り込み引き返すことに。みなひゃんすいましぇんれひた。 はぁー |
● 第12回探索会 生駒山東麓の役行者・行基ゆかりの地を探索 2004.9.27 雨〜曇り | ||
小雨決行といったものの、天気が大きく外れ、生駒駅についたら大雨。「すぐ雨も上がりまっしゃろっ」と河内弁丸出しにて回復を期待すれど希望無し。 ジャジャ降りの中、仕方なしに山頂の八大龍王社から階段道がある谷を下って薬師の滝へ、もぉー悲惨な状態と相成りました。ここは東山腹は鬼取にある役行者ゆかりの鶴林寺の奥の院で古くは生駒寺という寺があったといわれます。 役行者が鬼を捕らえた所という伝説もあります。谷合の斜面に巨岩が露出して、それらしい雰囲気。ずるずる滑りながらようやく鬼取の鶴林寺へ。幸い雨もあがり役行者石仏のある教弘寺〜山ろくの行基火葬の場といわれる往生院〜墓のある竹林寺〜生駒大社まで歩きました。やれやれ。お尻は泥泥。 生駒神南備山は役行者・修験道の歴史と大きくリンクして広がっていきます。 |
● 第13回探索会 平群の船山神社周辺の謎を探る 2004.10.25 晴 | |||
前回とは違っていい天気に恵まれ、平群駅のすぐ北にある伝長屋王墓と吉備内親王墓を訪ねました。 住吉大社の記録『膽駒神南備山本記』には「此の神の造作れる船二艘(一艘は木作り、一艘は石作り)を以て後代の験の為に膽駒山の長屋墓に石船を、白木坂の三枝墓に木船を納め置く」とあり、前々から謎の石船の手がかりがないか探索したい地域でした。 長屋王墓のすぐ東に続く矢田丘陵の麓、三里には式内社の船山神社があり、背後の宮山頂上には古くから三つの船石と船上神社跡があるというので、白石畑まで北側の急坂を登り白石畑方面から山上へのルートを探しましたが結局見つからず、再び平群谷へ下り、周辺に点在する式内社などを訪ねて回りました。再度、宮山の巨石と船上神社跡をぜひ探索しようと思っています。 伝長屋王墓 船山神社の背後の宮山 船山神社 平群氏春日神社(椿井) |
いこまかんなびの杜 |